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伊丹十三のこと 2 1980年前後、サブカルと思想の最前線にいた伊丹十三

今野勉・著『テレビマン伊丹十三の冒険』東京大学出版会という本を読んだ。

伊丹十三は、俳優で、本を何冊か出しているエッセイストで、最後は映画監督だった。商業デザイナーもやり、テレビでレポーターをやっている時代もあったし、数冊しか続かなかったが『モノンクル』という雑誌を心理学者の岸田秀と共同編集していたこともあった。

俳優としては脇役がほとんどで、『家族ゲーム』や『細雪』が代表作になるのだろうか。

監督した映画は、『お葬式』(1984年)、『タンポポ』(1985年)、『マルサの女』(1987年)、『あげまん』(1990年)『スーパーの女』(1996年)など、10本を作って、みんなヒットしている。

伊丹十三の映画は、いわゆるインディーズだ。監督である伊丹十三自身が資金を調達して、自分で作るという、アメリカでいったら、クリント・イーストウッドみたいな映画の作り方をしている。

それで、全作品、黒字を出していたのだから、博打性の高い商売である映画にしては、ものすごいことだ。日本映画で、こんなに打率の高い監督は、後にも先にも伊丹十三しかいないのではないか。

伊丹十三は、1933年(昭和8年)に生まれて、1997年(平成9年)に亡くなっている。昭和一桁の人で、ちょうど私の両親と同じ世代だ。亡くなったのは、もう四半世紀も前のことだ。この本は、その伊丹十三のテレビ時代について書いた本だ。

著者は、テレビマン・ユニオンの創設者の一人で、ドキュメンタリーやドラマのディレクターだ。テレビマン・ユニオンというのは、テレビ番組の制作会社だ。ドラマも作るしドキュメンタリーも作るし、映画も作る。現在ではとても手広くやっている制作会社の老舗だ。


今では報道番組も外注で成り立っているテレビ業界だが、日本でテレビが始まった最初は、どんな番組も、そのテレビ局で作っていた。ところが、労働問題が切っ掛けで、TBSの職員たちが独立して、テレビ番組の制作会社を立ち上げた。それが日本で最初のテレビ番組制作会社のテレビマン・ユニオンだ。1970年のことだという。

ユニオンというくらいだから、組合的な会社運営を特徴としている。と、書いてみたが、具体的なことは、私にはわからない。そもそも、普通の会社のことだって、私はろくに知らないのだ。

ともかく、テレビマン・ユニオンを立ち上げた時のメンバーの一人が、著者の今野勉だ。今はもう亡くなっている人が多いが、今野は健在で、現在も取締役をやっている。

この今野が、1970年代の前半に、テレビマンユニオンで作った番組に、伊丹十三がよく出ていたのだ。出ていたというのとも、ちょっと違う。伊丹十三は、俳優だったから、最初はレポーターとして出演していたが、途中から企画もたてたし、ナレーション原稿も書き、後にはディレクターもやっているから、今野とは、俳優と監督というよりは、共同制作者のような間柄だ。

また、伊丹十三は、その過程で、テレビマン・ユニオンの株主の一人にもなっている。テレビマン・ユニオンの株は、誰でもが買えるわけではなく、承認制だった。株主になるということは、テレビマン・ユニオンという会社の趣旨に賛同し、メンバーに加わった(認められた)ということだった。
このあたりが組合的な運営なのだろう。

ということで、今野勉が、当時の番組や伊丹十三のことを振り返って書いたのが、この本だ。本当なら、5回とか6回連続のテレビ番組=映像作品にすればいいのだが、それが出来ないから、本になったような、ちょっとおかしな印象を受ける。

伊丹の革新性を示すのに、当時の番組のビデオを見て、長々と文字に書き起こしている。それがやたら多くて、長い。

これが本ではなくて、「映像作品」だったら、元の映像をそのまま流せばすむし、その方が的確に伝わると思う。が、「本」だから、いちいち文字に書き起こさなくてはならない。今野の本業は映像だから、やっぱりどこか無理がある。読んでいて、飽きてしまうのだ。

今野と伊丹が最初にやった番組が『遠くへ行きたい』だった。この番組は、最初は永六輔が始めた番組だったが、永が降板したあと、数人の俳優がレポーターになっている。その中の一人が、伊丹十三だった。

「遠くへ行きたい」の主題歌は、オリジナルはジェリー藤尾が歌っていたが、番組の主題歌は別の人が歌っていたようだ。


伊丹が加わったことで、それまでのテレビの常識を打ち破った画期的な番組になったらしい。

簡単に言うと、制作サイドの裏側も見せながら、その場で出会ったもの、撮れたもの、をライブ感覚で、取り入れたということだ。レポーターの伊丹も、カメラマンなどのスタッフも、アドリブ感覚で番組を制作しており、現在ではとうてい考えられないようなシーンが随所にあるらしい。

私も子供の頃、伊丹十三が出る『遠くに行きたい』を一度見たことがある。といっても、単に見たという記憶だけで、中身は何も覚えていない。

その時期、私の父親が交通事故にあい、何か月か入院をした。母親が付き添いで病院に泊り込むことになり、短期間だが、私と兄は、従兄弟の家、つまり父親の実家に預けられた。

従兄弟の家のテレビは、カラーでUHFも見られた。当時、私の住んでいた地方都市では、民法のテレビ局は2社しかなかった。そのうち後発の1社が日本テレビ系列で、しかもUHFだったのだ。

UHFチャンネルを見るには新しいテレビを買うか、コンバーターという機械を設置するしかなかった。しかし、わが家のテレビは、真空管の白黒だったので、コンバーターもつけられず、UHFは見られなかった。その反動で、私と兄は、従兄弟の家では毎晩、遅くまでテレビを見まくった。

『遠くへ行きたい』は、日本テレビだったので、UHFチャンネルで、従兄弟の家で見たのだった。この長寿番組は、日曜日の朝の番組という印象があるが、その頃は、やたらと遅い時間帯にやっていて、私はまだ小学校の中学年だったから、ほとんど起きているのが不可能なくらいだった。

中身はなんにも憶えていないが、6歳年上の従弟が、レポーターをやっている人物を、「この人は、『北京の55日』に出ていた人だよ」と教えてくれたのだ。それが伊丹十三だった。


『北京の55日』というのは、1900年に起きた義和団の乱をテーマにしたアメリカ映画だ。それに、日本人の軍人の役で伊丹十三が出ていたのだ。

我が家には、克美しげるが歌うアニメ『8マン』の主題歌のドーナツ盤があり、なぜか裏面が『北京の55日』の日本語の主題歌だった。そしてなぜか従兄弟の家には、ブラザース・フォアが歌う『北京の55日』の英語のレコードがあった。で、その頃、私たちは一緒に、「ときは、いっせん、きゅうひゃくねん、ごじゅうーごーにち~」で始まる『北京の55日』の主題歌をよく歌っていたのだ。

私が『北京の55日』の映画そのものを見るのは、数年後になるのだが、とりあえず、その時に、伊丹十三の顔を認識したのだった。多分、顔だけ憶えて、名前は憶えなかった気がする。

映画『北京の55日』を見たのは、テレビでだった。私は中学生になっていた。主演がチャールトン・ヘストンだったので、妙に嬉しかった。中学生の私にとって外国映画と言えば、フランスのアラン・ドロン、アメリカのチャールトン・ヘストンが2大アイドルだった。

そういう感じなので、伊丹十三の『遠くへ行きたい』がどれだけ画期的だったのか、なんてことは私にわかるはずもなく、『遠くへ行きたい』も、我が家で20インチのカラーテレビを買った後に、日曜日の午前中、渡辺文雄が出ていた頃に、一番、見ていた気がする。





今野勉は、主に『遠くへ行きたい』と『天皇の世紀』という番組で、伊丹十三と組んでいたらしい。『天皇の世紀』は、「鞍馬天狗」などを書いた作家の大佛次郎の大長編小説だ。やっぱり鞍馬天狗と一緒で、幕末から維新の時代を舞台にしている。

「鞍馬天狗」が時代小説だとしたら、「天皇の世紀」は、膨大な量の資料を駆使して描いた歴史小説だ。文庫で17冊もあったと思う。

それを原作にして今野と伊丹が作った番組が『天皇の世紀』だ。第一部がドラマで、13回くらいあったらしい。二部がドキュメンタリーで、それも10回くらいは続いたようだ。その二部には、「遠くへ行きたい」と同様に、伊丹がレポーターとして登場する。現場に赴き、歴史を紹介し、解釈し、大佛の書いた「天皇の世紀」を表現したらしい。

『遠くへ行きたい』と『天皇の世紀』での伊丹の革新性について、今野はいちいち書いてはいるのだが、あんまり印象に残らない。その後に、今野と、テレビマンユニオン出身の映画監督の是枝弘和の長い対談が掲載されている。

それを読むと、メジャーでありながら現在もっとも先進的な位置にいる是枝裕和という映画監督を通して、伊丹の革新性が見えてくる。

是枝は、伊丹の出演番組をテレビでは見ていない世代だ。テレビマンユニオンに入社して、ライブラリーにあるビデオで、伊丹の関わった番組に出会って、多大な影響を受けたのだという。是枝はビデオで伊丹十三の革新性、自由度、先見性を発見して、自分の糧にするのだが、この対談もやたらと長い。

長いからはしょって読みたくなる。その結果、伊丹十三の具体的なすごさというよりも、今を代表する旬な映画監督である是枝弘和に、すごい影響を与えたのが伊丹十三だ、その是枝が太鼓判を押しているのが伊丹十三だ、という感じに読めてしまって、本としては、ちょっと残念な感じになっている。

ということで『テレビマン伊丹十三』という本は、いまいちだった。

この2年ほどの間、私は映画館でドキュメンタリー映画をよく見ていた。その中の何本かが、テレビマン・ユニオンの若い人が作っていた。

ビートルズの来日公演を扱った『ミスタームーンライト』や、登山家の山野井泰史を扱った『人生クライマー 山野井泰史と垂直の世界 完全版』、寺山修司が作ったテレビドキュメンタリーを扱った『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』などだ。


『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』という映画には、今野勉その人も登場していた。うーん、あの人かあ、と思い出しながら、今これを書いている。確か、寺山修司の日の丸というドキュメンタリーは、演劇だった、みたいなことを言っていた。私にはいまいちピンと来なかったのだ。よって、今野勉に対する印象はあまり良くない。

まるで予想もしていなかったが、今野勉を検索していて、私は過去に彼が書いた本を、2冊、読んでいることに気が付いた。一冊は、宮沢賢治同性愛者説に基づいた『宮沢賢治の真実』という本だ。よくわからない本だった。この本を書いた人と同じ人なのか、とちょっとびっくりした。

『テレビの嘘を見破る』という新潮新書もあった。これも、素人の知らないテレビづくりの細かなテクニックが披露されている点は面白かったが、本としては、残念な中身だった。

今回の伊丹十三の本も合わせると、3冊も今野勉の本を読んだことになる。結局、私の興味のあるところを、今野勉は、触れるのだが、しかし今野勉の本は、つまらないという結論になってしまった。なんだか残念だ。

伊丹十三のことを書こう。伊丹十三が私の興味に浮上してきたのは、NHK教育テレビの『若い広場』という番組の「マイブック」というコーナーだったと思う。

それはまだ十代だった女優の斉藤友子を相手に、作家や有名人が、他人に読ませたい本を4冊、紹介するコーナーだった。確か一人が4週に渡って登場した。もちろん私は、自分と同い年の斉藤友子を目当てに、その番組を見ていたのだ。

斎藤友子

そこに登場した伊丹十三は、岸田秀の『ものぐさ精神分析』と、福島章や柴谷篤弘の本を紹介したのだった。

岸田秀は、「人間は本能の壊れた動物だ」という唯幻論というものを提唱して、ベストセラー本を連発することになる心理学者だった。

福島章は、小田晋などと並んで、当時は猟奇的な犯罪事件の精神鑑定なんかをする人だった。古くは大久保清事件(1970年)から、新宿西口バス放火事件(1980年)や、深川通り魔殺人事件(1981年)、女子高生コンクリート詰め殺人事件(1989年)なども担当している。

柴谷篤弘は、分子生物学者だったが、『反科学論』とか、その少し後に、今西進化論を批判する本などを出して、やっぱり若い人達に、読んどかなきゃと思わせる本をいくつも著した人だ。

私は単なる本好きの高校生だったが、伊丹十三の回を見て、頑張って、それらの専門書のような本を読んだのだった。そして、そういう本を紹介する人として、伊丹十三を再認識したのだった。

伊丹十三が、岸田秀と一緒に『保育器の中の大人』という本を出したのが「マイブック」に出た直後の1978年だ。出版社は朝日出版社で、当時は「工作舎」と並んで、知的刺激のある本を立て続けに出していた。

1981年になると伊丹十三は岸田秀と共同編集をした雑誌『モノンクル』を朝日出版社から創刊する。なんだか本屋さんの最先端に伊丹十三が躍り出てきた感じだった。そしてこの雑誌には、「佐川君事件」を特集した号もあった。

この雑誌は数冊で終わってしまったが、その刊行中の1982年に坂本龍一が哲学者大森荘蔵と対談した『音を視る、時を聴く 哲学講義』という本を、『保育器の中~』と同じシリーズで出している。朝日出版社は、「週刊本」も出しているし、柴谷篤弘の『今西進化論批判試論』も出している。

『戦メリ』ブームと並行した同じ時期に、俳優としての伊丹十三は、森田芳光監督作品『家族ゲーム』や市川崑監督作品『細雪』に出演している。

伊丹十三は坂本龍一より20歳ほど年上だったが、やっぱり坂本と同じ時期に、同じように、サブカルチャーと思想の最前線にいたのだった。

1984年になると映画『お葬式』を発表して、伊丹十三は映画監督になっていく。その後、ほぼ年1作のペースで、亡くなる1997年まで伊丹映画の新作は続いたのだった。

                        (つづく、と思う。)

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