読書日記 池央耿・著『翻訳万華鏡』名翻訳家のエッセイ
池 央耿 ・著『翻訳万華鏡』 河出文庫 という本を読んだ。
著者は翻訳家だ。そういえば、昔から見かけたことのある名前だ。しかし、なんと読むのか、知らなかった。
池央耿と書いて、「いけ ひろあき」と読むのだそうだ。一文字で「池」という苗字も珍しいが、「ひろあき」を「央耿」と表記するのも珍しい。
1940年生まれだから、今年84歳だ。だから、ベテランの翻訳者だ。訳業は、エンタメやSF、音楽関係と多岐にわたっているらしい。
この本は、2013年に発行された著者の初のエッセイ集だ。しかも書下ろしらしい。今年の頭に文庫になったが、10年くらい前の本なのだ。だから本書は著者が70代の時に書いた本だ。
私よりも20歳くらい年上なせいか、文語的な表現があったり、言い回しが意外と古臭い。教養が古典的というのだろか、教養の世代が私とは明らかに異なっていることを感じる。
巻末の高見浩の解説を読んだら、この本を遺してくれたとあった。検索したら、池央耿は、2023年の10月に亡くなっていた。享年83歳だ。文庫の帯にも、追悼の文字があった。
合掌。
解説の前に、著者の訳業リストが載っている。それを見ると私でも10冊くらいは読んでいた。最後が、ブルース・チャトウィンの評伝になっていて、ああ、あの翻訳の人か、とやっと思い当たった。
私が確実に著者の訳業だとわかるのは、この評伝、一冊だけだ。それ以外にも、10冊くらいは読んだ記憶はあるが、訳文に関する印象はないのだ。
ブルース・チャトウィンというのは、イギリスの作家だ。チャトウィンは、ジョン・レノンと同じ年の生まれだが、ロックのニオイのまるでしない人で、若くしてサザビーズに入社して、印象派を担当して、恐らくは価格の高騰に一役買って、その後は、旅行記のような小説を数冊書いて、1989年にエイズで亡くなった。
ブルース・チャトウィンの短いエッセイを集めた『どうして僕はこんなところに』という角川文庫があって、これも、池央耿が神保睦という人と共訳している。私はこれを読んだときには、なんのストレスも感じずに、すんなりと読んだ記憶がある。
その他に池が翻訳した本も、どれもつっかえた記憶がない。ところが、チャトウィンの評伝は、ストレスありまくりの本だった。
その評伝のタイトルは、『ブルース・チャトウィン』で、著者はニコラス・シェイクスピアという人で、角川から2020年に出ている。やたらと分厚い本だった。
正直、金を返せと言いたくなるくらい翻訳がひどかった記憶があるのだ。もしかしたら、原著がひどいのかもしれない。編年形式の評伝ではなかったし、そのせいか、資料として参照しようにも、5WIHが不明な記述が多すぎて当該箇所が探せないような書き方になっていた。
しかも、700ページほどもあり、無意味に文章量が多いのだ。どうやって翻訳したのだろうか、と不思議になるくらい、雑な内容だった。
1ページに、2か所から3か所、意味の特定できない文章があった。これは原文のせいなのか、翻訳者のせいなのか、とにかくストレスを感じたのだった。
その本の翻訳者の名前が池央耿だった。
だから不思議なのだ。今読んだこの『翻訳万華鏡』は、言語明瞭、意味明瞭で、日本語としても味のある立派な文章なのだ。
翻訳リストにでている池が訳した本を読んだ記憶も、つっかえてストレスを感じた憶えがないから、癖のない良い翻訳文だったのだと思う。
つまり池央耿は、翻訳家としても文章家としても、レベルが高い人なのだと思う。
だから、『チャトウィン』だけが例外なのだ。
新人に下訳に出して、それをあまり推敲しないで、池央耿の名前で本にしてしまったのだろうか、そんなことを勘ぐりたくなってきた。
この『翻訳万華鏡』という本は、前半こそ自伝的な要素の文章があるが、途中から翻訳の手捌きに関しての記述が多い。翻訳というテクニカルな作業についての記述だ。
外国語と日本語のせめぎ合う落としどころを、いかに見つけて意味を通すか。その、塩梅というか、頃合いというか、極意というか、そういう手の内を、原文と翻訳文を並べて、披露していて、興味をそそられる。
全体的には、ブックガイドといった方がいいかもしれない。著者が翻訳した本や作家のプロフィールを紹介しつつ、関連本や文化背景についても、サラッとだが的確に教えてくれている。
それもやけに陽性の印象だ。文学者にありがちな、陰にこもった表現は全くなく、著者の楽天的な人柄がしのばれる。
こうなったら、池央耿訳の本を探して読みたくなった。そういえば、池が翻訳したジェイムズ・P・ホーガンのSF小説は、ちょうど今、というかまた、書店に平置きされていたような気がする。
しかし、今の私に長大なSF小説を読み切る集中力があるだろうか……。
しかし、それ以外の本は、新刊書店では、ほぼ入手が出来ないようだ。多分、池央耿が翻訳した本は、その時の流行の本なのだ。だから流行が終わったら、あまり顧みられない。そんな本が多いのだ。
現在、池央耿の翻訳を読もうと思ったら、早川文庫のジェイムズ・P・ホーガンのSF小説か、晩年に翻訳を試みた、光文社古典新訳文庫のいくつかを読むしかないようだ。
それにしても、しつこいけれど、なんでチャトウィンの評伝だけ、あんな翻訳だったのだろうか、謎だ。
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