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読書感想文 スタインベック・著『チャーリーとの旅』 今も昔もあまり変わらないアメリカ




昔読もうと思っていた本が文庫になった


高校生の頃、この本が文庫になったら買って読もうと思っていたが、一向に文庫にならなかった。そのうちに、その存在も忘れてしまった。

最近になって本屋さんに行ったら、岩波文庫になって平積されていた。ああ、あの本だと、45年ぶりくらいに思い出して、買って帰って、読んだ。


世界の名作は、実は苦手。小説よりノンフィクションが好み


スタインベックはノーベル賞も取ったアメリカ文学の巨匠だ。『怒りの葡萄』や『エデンの東』という誰でも知っているタイトルの長編小説がある。でも私は読んだことがなかった。

『エデンの東』は映画でも有名だ。でも私は『ジャイアンツ』と区別がつかない。どちらもジェームス・ディーンが出ているし、アメリカの大きな農場が舞台になっているからだ。

そういえば、1930年から戦後の50年代にかけてのアメリカの長編小説には、『エデンの東』みたいな裕福な農場一族を巡る物語が多い。

フォークナーの何冊かとか、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』とか、パール・バックの『大地』とかだ。『大地』だけ中国が舞台なので、ちょっと趣が違う。

それらの長編小説は、父が買った河出書房の文学全集に入っていた。私は、まだろくに漢字も読めない中学生になったばかりの頃から、それらを片っ端から読んでいた。短期間に読んだせいか、どれも似たような印象になっている。

農場経営がうまくいって、金と権力を手に入れた主人公は、大抵、性欲に走って、奥さん以外の女性と性交して、挙句に子供なんかが出来ると、跡取りにするとかしないとかで事件になるパターンが多かった。

さらに、生まれてきた子供たちには、出来の良し悪しがあった。子供たちの間に確執があったり、親子の間に確執があったり、また障害者が生まれたりというのもパターンだった。

しまいに、主人公は、大抵、神に祈ったり、懺悔したりするのだ。これが私にはまるで理解できない展開だった。

主人公がちょっと我慢すれば問題にもならないことが、自制が効かないから、いちいちおおごとになってしまう。自分でおおごとにしておいて、後悔して、神様に許しを請うって、だらし無さすぎる。

事件が起きないと小説にならないのから、そんな展開になっているのかもしれないが、私はそんな主人公たちに感情移入が全く出来ないのだった。

ところが本好きの同級生なんかは、主人公の苦悩に感動したりしているのだ。めまいがした。

ということで、世界文学全集なんかに入っている長編小説は、自分には相に合わないものだと感じて、それからは、もっぱらノンフィクションを読むようになった。

最初にはまったのは、ドミニク・ラピエールとラリー・コリンズの二人が書いた『パリは燃えているか』とか『今夜自由を』とか『さもなくば喪服を』などだ。

日本だと、立花隆や柳田邦男から読み始めて、大宅壮一ノンフィクション賞受賞作品を漁った。そのうちに、藤原新也とかを読むようになって、沢木耕太郎が出てきたので、思い切りはまった。

ちょうどその頃に、『チャーリーとの旅』を本屋で見かけたのだ。うーん、やっとたどり着いた。

でも『チャーリーとの旅』の中身よりも、いつものことながら、私の文章は、この本を気にかけている私、読んでいる私がメインだから、この先も自分のことばかり書くことになると思う。

『チャーリーとの旅』は、小説ではなくて、ノンフィクションの旅行記だとあったから、私に引っかかったのだ。

そして今回、やっと文庫化されて、ほぼ45年ぶりに読むことができた。読んで驚いたことがある。チャーリーというのは、ずうっと猫のことだと思っていたが、犬だった。

文庫本のカバーにも、木の根元にでっかいプードルと一緒に座っているスタインベックの写真が使われていた。表紙も見ている筈なのに、読み出すまで気が付かなかった。

『チャーリーとの旅』は、作家のスタインベックが、1960年の秋に、愛犬を乗せたキャンピングカー(モーター・ハウスと言うらしい)で、アメリカ一周の旅に出た記録文学だ。

おりしも大統領選挙の直前で、アメリカ国内は、民主党支持者と共和党支持者とで、極端に二分されていたらしい。

その状況を危惧した作家が、自分は実はアメリカについて何も知らないなあと思って、アメリカの現在を知るために、車でアメリカ一周の旅に出ることにしたのだ。

私の頭の中で、チャーリーが猫になっていたのは、きっと『ハリーとトント』という映画の影響だ。

この映画は、マンハッタンに猫と一緒に一人で暮らしているハリーという爺さんが、アパートを追い出されてしまい、娘の住む遠い街まで行くというハナシだった。猫のトントがいるので、飛行機も電車にものれず、車で移動する羽目になる。

映画はコメディタッチのロードムービーで、しんみり、ほっこりする作品だった。1970年代なかばの作品で、私は映画館で見ている。『スケアクロウ』と同時上映だった気がするが、記憶の捏造かもしれない。

映画が良かったものだから、『チャーリーとの旅』も、この映画のようなのだろうと私は思い、犬が猫にすり替わったのだろう。


1960年代のアメリカは今の日本よりも豊かだった


さて、やっと本の中身に入る。日本ではしばらく前から車中泊が流行って、専門の雑誌が出ていたりする。ミニバンをキャンピングカーに改造して、一人旅をしている女性のYouTubeチャンネルもたくさんあって、それはそれで面白い。

しかし、1960年のアメリカは、今の日本よりも当たり前に豊かなのだ。車は大きしい、ベッドもあるしキッチンもあるし、トイレもある。日本のように車中泊なんてコトバは必要なくて、普段の生活をそのまま車の中に持ち込むことが当然で、躊躇うことがない。

スタインベックは、大量の本を持ち込んだり、車の中で洗濯までしている。日本の車中泊では、いかに隙間を有効利用するか、ちまいことが持ち味になっていたりするが、アメリカはダイナミックだ。

日本だと軽トラの荷台に小屋を乗っけたやつがあるが、スタインベックのは、ピックアップトラックの荷台にワンルームを乗っけた感じだろうか。

スタインベックは、アメリカ人らしく、ライフル銃を車に持ち込んでいる。猟をするためのライフルだ。銃を撃つこと、持つことに、逡巡はない。実際にこの旅の中で、何度か銃を構えているし撃ってもいる。

釣り竿も持ち込んでいる。釣りは娯楽でもあるし、食べる魚を釣るためでもある。

そもそも昔のアメリカ人は、幌馬車に乗って、移動生活をしていた。食べ物は、猟や漁で得る。現地調達だ。それを考えると、かつての幌馬車が自動車になったと思えばいいのかもしれない。

車の中に家と同じ機能を持たせることも、銃を持ち込むことも、当たり前なのだ。

スタインベックが現代に生きていたら、銃に関してはどのように考えるだろうか?

実は前半は退屈で、読み進むのが苦痛だった。後半から終盤にかけて、やっとスラスラ読めるようになった。

ノンフィクションの旅行記だと思って読み始めたが、ほぼ小説だった。時事的なことを確認できる記述も少ないし、固有名詞も少ない。ところどころに、著者のアメリカ人論やら地域論のようなものがチラチラ書き込まれているのだが、それらがまどろっこしいのだ。

印象批評のような、日本語でいうところのエッセイのようで、読んでいる側からしてみると、まるでウラの取れない論なのだ。

しかも著者は頻繁に犬と会話するのだ。プードルのチャーリーは、時々、人間のコトバだって話す。著者は犬の方が人間より、レベルが高い生き物だと書いているが、それがどこまで本気なのかよくわからない。ただ、著者が大の犬好きで犬をとても大事にしていることは、伝わってくる。

著者は旅先の色々なところで、現地の人を車に招き入れて、コーヒーを振る舞ったりして会話しているが、その会話がいまいち、嘘くさい。嘘くさいというか、かなり加工されている印象を受ける。


スタインベックのアメリカとトランプのアメリカ


後半になってから、白人と黒人の対立、人種差別についての記述が増える。著者が住むニューヨークなのど都会では、差別は少ないが、アメリカの田舎にいけば、スタンダードとして黒人差別は存在していた。

今でもニュースを見ていると、差別に基づく事件がよくあるから、アメリカの黒人差別は根強いのだろう。

この本の終盤、著者はニューオリンズで「チアリーダー」の政治集会を見物する。本書のクライマックスと言ってもよい部分だ。

その集会は、小学校が黒人も受け入れるようになったことへの抗議活動だった。「チアリーダー」というのは、一般の女性たちだ。

著者はそれを見苦しいことのように書いているが、彼女たちを支持する人々は、相当数、普通に存在していた。

「チアリーダー」の集会は、2020年代のトランプ支持者の集会と重なって見える。この本が、今、文庫化されたのは、トランプの大統領再選があるからなのだろう。

これを書きながら、私はなんだか絶望的な気分になってきた。

トランプは、大統領に就任してから、数々の政策を実行し始めた。半分くらいは、バイデン前大統領の政策を反故にする大統領令だが、トランプが前回大統領だった時期にエルサレムに移転させたアメリカ大使館を、バイデンだって、そのまま踏襲してきたのだから、イスラエルやパレスチナに対する姿勢は、どっちもどっちな気がする。

ああ、なんだか気が重い。


藤原新也の『アメリカ』と高齢移動労働者の『ノマド』

この本を読みながら、藤原新也の『アメリカ』という本を思い出していた。藤原新也が、キャンピングカーに乗って、アメリカ横断したノンフィクションで、1990年位に出た本だ。

出た時に読んでそれっきりなので、藤原新也がなんのために旅をしたのか、何が書いてあったのかは、ほぼ憶えていない。漠然と、ノンフィクションというより、藤原新也独自のアメリカ批評風の小説だったという印象が残っている。

藤原新也はアメリカのいろいろなことを断定的に論じるのだけど、そのどれもに根拠が示されていなくて、ノンフィクションとは思えなかったのだ。ハンバーガーのマクドナルドのことを論じている章だけ、面白かった記憶がある。

私は、『アメリカ』を読んで、藤原新也に興味がなくなったのだった。


そういえば数年前に『ノマドランド』という映画話題になった。原作の『ノマド: 漂流する高齢労働者たち』(春秋社2018)は、現代のいわゆる渡り職人とか季節労働者の実態を描いた、シビアなノンフィクションだった。
年金なんか当てにできない、家もない高齢労働者たちの現状は、カスカスだった。

彼らがスタインベックの『チャーリーとの旅』を絶賛していた。なんだか、勘違いしているようにしか、私には思えなかった。『チャーリーとの旅』を読んでもいないのに、私は何か違和感を感じたのだ。

だから、数年前にも、私は『チャーリーとの旅』を思い出して、いつか読もうと思っていたのだ、と思う。

『アメリカ』と『ノマド』を思い出して、さらに暗い気持ちになってしまった。






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