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「フラッシュ・イン・ジャパン」で広島の原爆を歌った矢沢は、ロックなのか?



先日、白竜についての文章を書いた時に、矢沢永吉の「フラッシュ・イン・ジャパン」という曲を思い出した。

白竜の原爆を歌った「グランド・ゼロ」からの連想だ。矢沢の「フラッシュ・イン・ジャパン」も、ヒロシマの原爆投下について歌った曲だ。

この曲は、1987年に、矢沢がアメリカで出した同名アルバムに入っている。アルバムは、日本では長らく発売されていなくて、2000年頃に、異なるジャケットでCDで出た。

中身は、少しの新曲と、その頃の矢沢の曲を集めた、ベスト盤のような変なアルバムだったが、何曲かは英語で歌い直してあった。

「フラッシュ・イン・ジャパン」という曲そのものは、ベスト・アルバムやライブ・アルバムに収録されていたので、日本でも1990年ごろには聴くことが出来ていた。

この曲は、ヒロシマの原爆投下を批判した歌だ。原爆ドームの前で撮影したPVも何かで見た記憶がある。

作詞・作曲したのは、確かアメリカ人で、アレンジは中国調で、最初に聴いた時は、なんだよ、チャイニーズ・ロックかよってガッカリしたのだった。

今回、YouTubeで探してみたら、ウクライナのニュース映像にかぶせて編集してある動画があった。英語歌詞の翻訳も字幕で出ていて、わかりやすい。


矢沢永吉 FLASH IN JAPAN


この曲は、簡単に言うと反戦歌なのだと思う。矢沢の場合、そういう曲はほとんどないから、かなり珍しい。今、聴くと、そんなにチャイニーズポップな感じもしない。

探してみたら、ミュージック・ビデオの広島バージョンもYouTubeにあった。海外のテレビ番組で紹介されたのか、最初と最後に女性アナウンサーの声が重なっている。

Longlost Music Video: Eikichi Yazawa "Flash in Japan" 1987


反戦歌なんだけど、まあまあバラードだ。やっぱり他人が作った曲だから矢沢っぽくない。

矢沢っぽくないけど、私はこの曲がかなり好きだったりする。アメリカ向けにあえてこの曲を出したのは、ヒロシマ出身の矢沢のロックな矜持を感じる。


矢沢は、ライブなどは確実にロックなのだが、スタジオ録音盤の本領は、バラードにある。そして矢沢のバラードは、エレキ・ギターがバックのロックというよりは、AOR的なアレンジの方が、マッチする。

矢沢永吉は、本来は、アダルト・ポップな歌手なんだと思う。


というわけでもないが、私の好きな矢沢のアルバムは、

『YAZAWA』1981年8月全米発売第一弾。
『RISING SUN』1981年10月国内発売。
『P.M.9』1982年7月国内発売。
『YAZAWA It's Just Rock'n Roll』1982年12月全米発売第二弾。
の、4枚だったりする。

この時期のアルバムは、アメリカで録音したこともあって、変な言い方だけど、音が「スティーリー・ダン」っぽいのだ。

たとえがわかりづらいかもしれないけれど、ロキシー・ミュージックが1980年のアルバム『フレッシュ・アンド・ブラッド』で、セッション・ミュージシャンを多用して、「スティーリー・ダン」っぽくなったのと同じ印象だ。

他人が作った曲も多いし、英語詞で歌っているものも多い。だから、この4枚は、矢沢の色が薄いのだ。別の言い方をすると、シンガーの矢沢が全面に出ているのだ。





ところで、本人は「ロックの矢沢です」と長年言い続けているが、矢沢永吉は本当にロックなのだろうか?

いつも私は考えているのだが、答えが出せないでいる。

ライブに行くと、紛れもなくロックだという印象が刻まれる。しかし、レコードやCDを聞くと、まったくロックじゃないし、ましてパンクの要素なんかみじんも感じないのだ。

だいたい矢沢の場合は、歌うというより、喉をきかせるって感じだ。歌い方は、技巧的で、かなり高度だ。それは、まるで演歌歌手のようだ。

だから、矢沢永吉のことは、「ロックの装いをした演歌歌手」なんじゃないかと、私はずっと考えている。

考えているというか、思って来た。

だって、矢沢のスタジオ録音盤は、ロックというより、バラード中心のAOLみたいな印象が強いではないか。

曲によっては、「反」(アンチ)な趣のものもあるが、大抵は、オーソドックスで、とても「小奇麗にまとまっている」。

この「小奇麗にまとまった」感じが、ロックとは遠く感じられるのだ。粗削りなところがまるでないのだ。

変な言い方だけど、音が、「大人しい」のだ。大人しいというのは、大人だから、アダルトでもあるのだ。ロックというのは、大人気ないものだから、アダルトとは相容れないのだ。

矢沢のアルバムは、とにかく音がいい。80年代以降のアルバムは、どれを聴いても、当時の他の邦楽ミュージシャンの作品よりも、音質はクリアで、音像も明確な印象を受ける。

音的な実験も、あまりやっていない。矢沢の音楽は、ニュー・ウェイブかオールド・ウェイブかっていえば、オールド・ウェイブに属する。

『E'』(1984年発売)のように、ある時期、シンセを取り入れ、ニュー・ウェイブっぽいアレンジのアルバムを作っていたが、それも実験作というよりも、装いにとどまるレベルだ。

そういうファッションを身にまとった、という感じだ。


歌われている歌詞の内容は、デビューから今日に至るまで、金太郎飴のように同じだ。

持たない者がイメージする「粋な暮らしや、粋な男女の粋な関係」だ。それらは粋(イキ)なんだけど、俗でもある。

イメージするのは、持たない者だから、大衆性がある。だから、歌詞の内容も、音と一緒で、とてもオーソドックスなのだ。

例えば泉谷しげるの歌詞は、泉谷本人と不可分の関係にあるが、矢沢の歌詞は、非個性的で抽象性があって、矢沢本人とはくっついているようでいて、実はあまりくっついていない。誰にでも開かれている?コトバだ。

その誰にでも開かれた歌詞を、鍛え上げられた喉が、一節、二節と鳴らして行くのだから、好きな人には、たまらないのだと思う。

だから、やっぱり矢沢はロックじゃないのだ……。

こういう結論でいいのかなあ?







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