私は英語がわからない。英語がわからない私は英語の曲の何を聴いているのか?
書いているうちに収拾がつかなくなったので、そのままアップします。申し訳ありません。そもそも、論理的な思考が出来ないのです、私は。
キヨシローの日本語訳「マザー」
忌野清志郎が日本語でカバーした「イマジン」を聴いた時、英語を母語にしている人は、こんな感じでジョン・レノンの原曲を聴いていたのかと、感動したことを憶えている。
一番最後に付け加えられた「ぼくらは薄着で笑っちゃう」という歌詞を聴くに至っては、原曲を超えたんじゃないかと、短絡的な私は思った。
なんでそんなに感動したのかというと、ようするに私は、英語がわからないからだ。そこへ、とっても適切と思える日本語で、しかもメロディを損なわず、誰よりも説得力のある声で歌われたものだから、コロッといってしまったのだ。
忌野清志郎には、そういう秀逸な日本語訳カバー曲が何曲かある。ジョン・レノンの「マザー」のカバーもその一つだ。
私の好きな英語の曲を、全部、清志郎がこんな風に日本語カバーしてくれていたら、問題はなかったのだが、そんなことはあり得なかった。そもそもジョン・レノンに対しても、私はそんなに思い込みがない…。
私が好きな曲の日本語カバーなんて、実は一つも無かったりする。
時々、自分は何を聴いているのかと茫然とすることがある
私が洋楽を聞きだしたのは、小学校の高学年の頃だ。洋楽(西洋音楽)というと、クラッシックっぽくなってしまうが、ここで言う洋楽は、日本以外の外国で作られたポップ・ミュージックといった程度の意味だ。
私の場合は、一番最初は、ミッシェル・ポルナレフだったから、フランス語だ。それからカーペンターズになった。
その後、T−レックスやデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、スパークス、クィーン、イギー・ポップ、ベイシティ・ローラーズ、ウィングス、それからストーンズやパンクを好んで聴くようになった。
最初に聴いたものの大半を、あるいはそのアーチストを、未だに聴き続けている。成長していないというか、性懲りもないというか……。
それらのほとんどが英語の曲だ。日本語の曲も聴いたが、比率的には、英語の曲の方が圧倒的に多い。
さすがに最近は、新しいバンドを漁るようなことはなくなっているが、それでも相変わらず何十年も、英語の曲を聴き続けている。
何度も聴いたことのある有名曲ともなれば、どんな内容の曲なのか、わかっていたりする。しかし、何度も聴いたことのある曲だって、いったい、何が歌われているのか、今、思い返してみると、なんの実感もないのだ。
歌の中身を大まかに把握したつもりになっていた曲もあるにはあるが、本当は、関係ないし、気にしていなかった気がするのだ。
早いハナシ、歌詞の意味なんて平気で無視して聴いてきたのだと思う。
私は、英語や外国語の曲の、いったい何を聴いているのか、聴いて来たのだろうか、とふと疑問に思うのだ。
コトバの意味も分からずビシバシ伝わってくるもの
曲というものは、大抵、最初はイントロがあって、楽器が奏でる音の連なりを聴くことになる。そのあとから、声が聞こえてくる。
曲によってリズムは、性急だったり、ゆったりしていたりするけれど、リズムに乗って声が聞こえてくる。
声は、歌だから、大抵、コトバが歌われている。コトバだから、意味が決まっている。
それが日本語の曲だったら、大体、意味がわかる。意味がわからなければ、意味がわからないということが、わかる。歌い手によって、意味がわかりやすかったり、難解だったりする。
コトバ(単語)やフレーズのわかる、わからないが拡張されて、曲全体のイメージになる。イメージというか私の側の解釈になる。日本語の曲だと、その解釈がそんなに外れていないという実感がある。
ところが、英語の好きな曲は、意味もわからず、何度も繰り返し聴いて来た。そんな曲に関しては、歌詞の内容なんかわからないままなのに、何か、勝手にわかったつもりになっている。
英語の曲でも、声、歌い方、声の出し方、投げつけ方で、コトバの意味がわからなくても、伝わってくるものがある。
声だけでなく、ギターでもそうだ。
そんな風に、相性のいい曲だと、ビシバシと伝わってくる。それは勘違いかもしれないけど、ビシバシと伝わってくるのだ。
ビシバシ度が高いと、聴いている方は、よりわかったつもりになる。
この、「わかった」という感覚はなになのだろうか? この時、本当に、わかっているのだろうか?
伝わってきたものは、そんなに間違っていないんじゃないか、という楽観した思いが私には漠然とある。
同時に、自分はその曲を正しく受け止めていないんじゃないか、理解していないんじゃないか、という不安も、私には歴然とあるのだ。
洋楽を聴くという我流の行為
その昔は、歌詞カードを見て、訳詞と照らし合わせながら、曲を聴いていたこともある。ステレオの正面に座って、レーコードを大事に聴いていた頃のことだ。
でもそれだと日本語で理解しているのであって、英語の曲そのものを受け止めているのとは違っていた気がする。
ある時期から、歌詞カードなんか無視するようになった。私がよく買っていた輸入盤には、そもそも歌詞なんか、どこにも載っていなかった。バンド情報すらなかった。
では、私は何を聴いていたのだろうか?
曲を聴くと、大抵、キャッチーな単語やフレーズが、突き刺さったり絡みついたりする。それは具体的な単語やフレーズなのだけど、私の体の中に入ると、すごく抽象的な状態になる。
何か言葉にならない気持ちのようなものに変換されるのだ。それが、ガツンと、あるいはポワっと、はたまたシンミリと、頭の中か、あるいは喉の下から胸くらいのところにあって、ジワーっとヒリヒリしているのだ。
自分の体の中なのか、気持ちの上でのことなのか、それとも頭の中なのか、とにかく唾を誘発するそのあたりで感情を受け持っている部分が「通電」していて、楽器の音と歌っている声と、つまりはその時聴いている曲と、「直通」しているのだ。
この直通度合いが大きかったり太かったりして、強いと、その曲は自分にとって心地良く感じられる。逆に直通が途切れたり、細かったりして、弱いと、あまり聴かなくてもいい曲ということになる。
そうやって心地よく聴いている英語の曲は、やっぱりわかったような気持ちになって聴いている。でも、それは、正しく聴いているのだろうか? また元の問いに戻ってしまった。
私は正しく受け止めているのだろうか?
トンでもなく勘違いして受け止めているってことはないだろうか?
その辺が、わからないのだ。それほど間違っていない気がするのだが、立ち止まって考えると、ちょっと不安になるのだ。
不安といっても、大した不安ではない。外国語の曲を聴くということは、そういうものだと思っているし、それでいいのだとも思っている。
しかし、考え出すと、もしかしたら曲によっては大きくズレている能性があるのではないか、という不安が大きくなってくるのだ。
私の場合、ロックとかパンクが好みだ。テクニックのあるプログレも好きだけど、ど素人の勢い一発なパンクが、どうしようもなくワクワクする。
そういうパンクに一貫しているのは、「反」の意識だ。「反」の意識に貫かれてた歌詞のコトバとメロディーが、一定以上の疾走感を伴って繰り出され、こちらに届いたときに、その意味が体の中で瞬時にイメージとなって広がって、それが扇動力となって背中を押され、「反」なのに前に突き動かさるようになる。
聞き手の私が、抱えていたり感じていたりする違和感や諸問題を解決する解答をくれるわけではないのだが、その曲が、立ち向かえる大丈夫な自分に、あるいは立ち止まってそこに踏みとどまって大丈夫な自分にしてくれるのだ。
なんて感じで、邦楽、洋楽の曲を、私は消費してきたし、頼ってきた。これはやっぱり、音楽の聴き方としては我流なんだと思う。今回も結論がない。すいません。