映画妄想日記 アラン・ドロンのこととか、闘牛士のこととか、私が映画を見るようになった最初の頃のこととか
子供の頃、闘牛士が好きだった。多分、テレビで闘牛のドキュメンタリーを見たのがきっかけで興味を持ったのだと思う。闘牛の本場がスペインで、メキシコでもやっていることを知って、あのメキシコ・オリンピックのあったメキシコかあ、なんて妙な感心の仕方をしていた。
闘牛士の派手な衣装も不思議だった。ピッチピチすぎて、自分一人では着られないのだ。左右二人の助けを借りて、やっと着込んでいる映像が強烈に記憶に残っている。そんなきつい衣装で、よく動きまわれるものだと、さらに感心したのだった。
私の頭の中では、そんな闘牛士の衣装が一番似合うのが、当時、映画でよく見ていたフランスの俳優アラン・ドロンだった。ドロンが闘牛士役をやっている映画は見たことがないから、私は頭の中で勝手に妄想していたのだ。
そのアラン・ドロンも、ついに亡くなってしまった。88歳だから、大往生だ。
ここでは闘牛士ではなく、アラン・ドロンについて書こうと思っているのだが、私の文章だから、くねくねと横道にそれる。でも、メインはアラン・ドロンだ。
私が物心ついて、洋画を見るようになっただいたい小学校の高学年くらいの頃、大スターの筆頭はアラン・ドロンだった。世紀の二枚目として、日本では絶大な人気を誇っていた。私もすぐにミーハーになった。
同級生の女子たちは、アラン・ドロンのようなオジサンは駄目で、マーク・レスターがいいなんて言っていた。そういう人達は、大抵、歌手のルネ・シマールも良いと言っていた。私は、子供向けの少女マンガじゃないんだから、アラン・ドロンは大人なんだからさ、と子供ながらに憤慨していた。
アラン・ドロンは、そのまま少女マンガに出て来ても遜色のない美青年だった。しかし、少年ではなく、明らかな大人だった。それに、少女マンガの登場人物と違ってドロンは細くないのだ。体を鍛えていて、筋肉質で、やわっちくない。ぜんぜんヤサオトコじゃないのだ。へんな言い方だけど「筋金が太い」って感じだった。
その頃の映画の乱闘は、殴り合いがメインだった。キックは補助的なもので、ほとんど出てこなかった。ドロンは、喧嘩が強いというか、殴り合いがサマになっていて、そして、アラン・ドロンのパンチは、誰よりも重そうだった。それによく走っていた。
でもって、肝心なのが、育ちの悪そうなところだった。最近の日本語には不良性感度なんてわけのわからないコトバがあるけれど、ドロンは不良どころではなく、純正の悪って感じだった。
向こう側の人がたまたま俳優をやっているという印象なのだ。青い目が、こちら側にさびし気になびくのだが、奈落の底のように暗くあっち側なのだ。
だから、いくら俳優として成功しても、根っこのどこかに、存在自体に、「悪」みたいなものが残っていて、隠しようがないのだ。そういう稀有な存在だったと思う。
最初の頃は、洋画を見るといっても、私の場合、テレビ専門だった。荻昌弘が解説をしていた『月曜ロードショー』か、午後か夕方にほぼ毎日やっていたなんとかという洋画劇場だ。こっちは解説なしだった。
で、それらでよくやっていたのが、アラン・ドロン主演の映画だった。アラン・ドロンは、二枚目をやってもギャングをやっても、変態教師をやっても騎士をやっても刑事をやっても、とにかくカッコよかった。
パジャマ代わりに、日本の振袖を羽織っていたりするのだ。普通の男がそんな恰好をすれば、ヘンタイ崩れにしか見えないが、アラン・ドロンがやるとサマになっていて、ものすごくカッコいいのだ。
ガウン代わりの振袖が似合ったのは、ドロンのほかには、その後のフレディ・マーキュリーがいたけれど、でもフレディは、純正のヘンタイだった。しかも、フレディには胸毛があったけど、ドロンにはなかった。その差は大きい。
その当時、洋画と言えばフランス映画かイタリア映画が主流だった。今ほどアメリカ映画は流通していなかった。フランスだと、アラン・ドロンと同時期のスターに、ジャンポール・ベルモンドがいた。
ベルモンドは、アクションが得意で、私の頭の中では、007のジェイムズ・ボンドと同格に記憶されている。『勝手にしやがれ』とか『気狂いピエロ』のイメージは、まるでないのだ。私がこの2作を見たのは、大分後になってからだ。
ベルモンドとドロンは、『ボルサリーノ』で共演している。この映画は中身もいかしていたが、テーマ曲がとてもいい。伴奏の低音がとぼけていて、最初に聞いた時は、戸惑ったくらいだった。これに限らず、『太陽がいっぱい』や『シシリアン』『冒険者たち』とドロンの映画は、音楽も記憶に残る名曲が多いのだ。
ジャン・ポール・ベルモンドは、2021年の9月に亡くなっている。なんと国葬で、追悼式だってフランス政府が主催して、弔辞もマクロン大統領が読んでいた。
一方、アラン・ドロンの葬儀は、地味だった。この違いは、出自というか、階級格差みたいなものが根っこにあるんだと思う。昔から、ベルモンドの趣味は乗馬だけど、ドロンは卑しい出なので、乗馬はしちゃいけないのだ、なんて言われていた。本当だろうか?
私の頭の中では、アラン・ドロンとジャンポール・ベルモンドに、アメリカ人俳優のチャールズ・ブロンソンがなぜか加わっている。ブロンソンは、ルネ・クレマン監督の『雨の訪問者』とかイタリア映画の『狼の挽歌』など、ヨーロッパ産のギャング映画によく出ていたのだ。
では、ブロンソンがフランス語やイタリア語でしゃべっていたのかと言われると、よくわかない。コトバの壁はなかったのだろうか?
ブロンソンがヨーロッパ映画に出ていたのは、それらのギャング映画が原作にした小説がアメリカのノアールだったりした関係なんだろうか?
アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが共演した『友よさらば』なんて映画もあった。あれっ? 『さらば友よ』だったっけか。名作だ、ったような気がする。この二人に三船敏郎が加わった『レッド・サン』なんてヘンテコな映画もあった。
イタリア映画といえば、当時の二枚目には、マルチェロ・マストロヤンニという俳優がいたのだけど、どちらかというと女優のソフィア・ローレンの映画ばっかりテレビで見た印象がある。
あと、少し格落ちするが、ジュリアーノ・ジェンマという俳優がいた。こちらはマカロニ・ウェスタンだった。
一方ハリウッド映画といえば、その頃は、なんといってもチャールトン・ヘストンの映画ばかりテレビでやっていた。『猿の惑星』シリーズや『十戒』『ベンハー』なんて、それぞれ数回は見ている。でも一番印象に残っているのが、SFの『ソイレント・グリーン』だ。映画館でも『大地震』や『エアポート75』などをオンタイムで見ている。
アラン・ドロンの映画もやっぱりテレビだ。多分、アラン・ドロンの全盛期は60年代なのだ。だから1961年生まれの私は、映画館には間に合っていないのだ。
私が映画館に通うようになったのは、1970年代半ば以降だから、ドロンの代表作のほとんどはテレビで見たことになる。
やっぱり筆頭は、『太陽がいっぱい』だ。この映画は、何回も見ている。スライドを投影して他人のサインを練習するシーンを、教室の黒板で私は何度も真似をしていた。
パトリシア・ハイスミスの原作小説も、角川文庫で買って読んだ。小説は、映画と違って、犯罪が成功するので衝撃的だった。
ドロンの映画は、『太陽がひとりぼっち』『地下室のメロディ』『黒いチューリップ』『冒険者たち』『パリは燃えているか』『サムライ』『悪魔のようなあなた』『あの胸にもう一度』『シシリアン』『ボルサリーノ』『高校教師』『リスボン特急』なんかもテレビで見た。
『サムライ』や『シシリアン』は、数回以上見ている気がする。こうして思い返すと、当時は、結構、大人向けの際どい作品も、テレビで普通に放送していた。
映画館だと『アラン・ドロンのショック療法』を見たのが最初だろうか。私は中学生になっていたと思うが、この映画は、こども向けではなかった気がする。
中学に上がった頃に、女子に異常に人気があったのは、ビヨルン・アンドレセンだった。といっても、彼女たちは、『ベニスに死す』なんか見たことがなくて、情報源は、もっぱら雑誌だった。『スクリーン』や『ロードショー』といった映画雑誌ではなく、女性向けの雑誌だった気がする。
私は相変わらず、アラン・ドロンが大好きだった。映画館では、『ボルサリーノ2』とか、『個人生活』『愛人関係』『怪傑ゾロ』『ル・ジタン』『ビッグ・ガン』『フリック・ストーリー』『ブーメランのように』『エアポート80』あたりまで見ている。しかし、よくすらすらと題名が出てくるものだ。全部、邦題だけど……。この頃まで、私にも記憶力がまともにあったのだ。
『地下室のメロディ』とか『ジンギ』とか『亜麻色のマッドレー』とか『スコルピオ』『友よ、しずかに死ね』っていうのもあった。もう、とにかくみんな見ている。
マリー・ラフォーレとかジョアンナ・シムカスとか、ロミー・シュナイダーとか、ミレーユ・ダルクとか、ナタリー・ドロンとかシドニー・ロームとか、アラン・ドロンの映画を見て、女優のことも覚えた。
実は、中学、高校時代は、私はお金を払わないで映画を見ていた。親戚の家の土地に、洋画をかける映画館2つの看板が立っていた関係で、毎月招待券が来るのだ。私はいつもそれをせびっては、映画館に通っていた。
当時のロードショーは2本立てだったので、運がいいと、ひと月に4本の新作洋画を見ることが出来た。
高校卒業後は、進学で、隣の県で一人暮らしを始めたので、映画は自腹で見ることになった。時代も80年代に突入し、『E.T.』以降、地方でも2本立て興行はなくなってしまったから、映画を見る本数は激減してしまった。
その頃はもう、アラン・ドロンの映画も、見なくなっていたと思う。ルキノ・ヴィスコンティのブームの終わりのほうで、『山猫』のリヴァイヴァル上映を見たのが、映画館でドロンを見た最後だろうか。あ、『若者のすべて』も映画館で見ている。これもヴィスコンティだ。同時上映だったか。
数年前、午後の地上波で、ドロン主演の見たことのない映画をやっていて、驚いたことがある。ドロンが演じていたのは、ヤサグレ中年刑事で、別れて暮らしていた娘が殺されたという知らせを受けて、アフリカからフランスに急遽戻ってきて、調査を始めるのだった。
ドロンは、娘を殺したグループを追い詰めて、次々と殺していくのだけど、無意味にドロンの上半身裸のシーンがあったりと、おお、アラン・ドロンだ、っていう映画だった。あれは1980年代の映画だったのだろうか?
90年代の末に、アラン・ドロンとジャンポール・ベルモンドが共演した『ハーフ・ア・チャンス』という作品があった。バネッサ・パラディが、二人の娘かもしれないという役をやり、監督はパトリス・ルコントだった。これは、でも、映画館ではなく、ビデオを借りて見たのだった。
どうでもいいと言えばどーでもいい映画だったが、共演している二人が見られるだけで私は嬉しかった。
ドロンとベルモンドの共演というと、『ボルサリーノ』が一番有名だ。続編の『ボルサリーノ2』は、ドロンの映画で、ベルモンドは、回想シーンでしか出てこない。
その前に二人が一緒に出ていた作品に『パリは燃えているか』がある。これはテレビで何回か見た。長い映画なので、いつも、前編後編の2回にわけて放送されていた。
第二次世界大戦時のフランスのレジスタンス蜂起から、パリの解放までを描いた白黒の超大作映画だ。ドロンとベルモンドは、あんまり絡まなかった気がするが、何回も見た割に、はっきりとは憶えていない。
この映画の原作は、アメリカのジャーナリストのドミニク・ラピエールとラリー・コリンズの二人が書いたノンフィクションだ。
この二人には、他に、イギリスが勝手に国を作っていいよと約束したために起こったイスラエル建国とそれを阻止しようとするアラブ諸国の闘いを描いた『おおエルサレム!』、イギリスの植民地からインドとパキスタンが独立したことで起こった民族対立とか虐殺とかを描いた『今夜、自由を』と、スペイン国民の英雄である闘牛士エル・コルドベスを描いた『さもなくば喪服を』なんかがあった。当時は全部早川書房から出ていた。
当時の私は、現代史の勉強でもするかのように、これらの本を一生懸命読んでいた。といっても、中身はほとんど忘れてしまっているが……。
この二人のノンフィクションを読んで思ったのは、イギリスって、ろくでもない国だなってことだった。
イギリスは、余計なことをして、やりかけのまま中途半端に投げ出すから、世界がろくでもないことなったんじゃないか、と思ったのだ。
そのせいでもないだろうが、香港が今のようになってしまったのも、イギリスが無責任だったからだと私は思っているのだが、多分、偏った極論だ。
アメリカ人のドミニク・ラピエールとラリー・コリンズの本を数冊読んだ後、私は、イギリスのスパイを主人公にしたジョン・ル・カレのスパイ小説にはまるのだが、それはまた別のハナシだ。なんだっけ、そうだ『さもなくば喪服を』だ。
ここでやっと闘牛士のハナシに戻る。
闘牛士のエル・コルドベスに関しては、当時、集英社から写真集と日本人の書いたノンフィクションが出ていた。1970年代の末か80年の初頭の頃だ。
写真を撮ったのもノンフィクションを書いたのも、今は時代小説を量産している佐伯泰英だ。最初は闘牛を撮るカメラマンだったのだ。なんで今みたいに軽い時代小説を書く作家になってしまったのだろうか? 人生いろいろだ。
それらを読んだ私は、闘牛士のエル・コルドベスを映画化するのだったら、アラン・ドロンがいいんじゃないかと勝手に妄想していた。闘牛士の衣装が似合うのはアラン・ドロンしかいないと思い込んでもいたし…。
でも、当時、ドロンは既に結構な中年だったから、実現は無理そうだったし、映画化なんてハナシもなかったように思う。
ハナシはとぶ。
私は洋画も好きだったが、洋楽も好きだった。レコードもよく漁っていた。ルー・リードが好きで、レーコードが出ると、買い集めていた。
ルー・リードというと、60年代後半に、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドでデビューした人だ。デビュー・アルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ』は、アンディ・ウォーホルがプロデュースして、ジャケットも手掛けているので有名だ。
中央にシールになった黄色いバナナがあり、それをはがすと、ピンクの実が出てくるというあの変形ジャケットのレコードだ。
しかし、当時の日本では、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードは、このファースト・アルバムしか出ていなかったし、バンドに関する情報もほとんどなかった。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのその他のレコードが、日本でも出るようになったのは、80年代に入ってからのように思う。ヴェルヴェットの他のアルバムは、ルー・リードのソロよりも、遅れての発売だったのではないか。
日本盤のアルバムが出るのに伴って、ヴェルヴェットを巡る当時の情報も出てくるようになった。
その中に、ニコがヴェルヴェット・アンダーグラウンドに参加するはるか前に、アラン・ドロンと付き合っていたとか、ドロンの子供を産んだというのがあった。
意外なところからアラン・ドロンの名前が出て来て、私はビックリしたのだった。でも知らないのは私だけで、ファンには知られたことだったのかもしれない。
子供は、本当にドロンの子供で、最後まで認知はしなかったと言われている。なんでだろうか?
アラン・ドロンに関しては、今年になってから、自宅に無許可で大量の銃と銃弾を所持していた科で、警察がガサ入れに入ったとか、数年前に脳梗塞になったとか、晩年を支えていた同居女性が日本人だったとか、その女性とドロンの子供達が、ドロンを取り合って、裁判沙汰になっているとか、そんな報道ばっかりで、ちょっと悲しいものがあった。
亡くなってからは、飼っていた犬だか猫を一緒に墓に入れて欲しいと遺言していたが、さすがに脚下されたというのがあった。
老人になってからのドロンは、どこにでもよくあるパターンで、右傾化発言もあるし、差別発言も多かったようだ。サルコジと一緒にニコニコしている写真もあった。
若い頃から暗黒街とのつながりも取り沙汰されていた。日本だと芸能人とヤクザとの関係とかそういう類だ。いまだにその文脈で語られることが多いが、具体的なハナシはよくわからない。
しかし、妻だったナタリー・ドロンの不倫相手だったボディーガードの殺害に関与したなんてハナシは、ドロンは裁判で不起訴になったけど、本当にマフィアとか大物政治家とかが絡んでいて、映画よりもスリリングだったみたいだ。もちろん、こんなハナシは、私は後から知ったのだが…。
あとから知ったといえば、一時期恋人だったロミー・シュナイダーが亡くなった際、葬儀をやってお墓まで用意したのがアラン・ドロンだったというハナシがあった。どういう事情でそうなったのかはわからないが、泣かせるハナシだった。今調べたら、詳細が分かるかもしれない。
なんだかゴシップの羅列になってきた。やめよう。
それにしてもアラン・ドロンは、中年以降は、パッとした仕事がほとんどない。1960年代、70年代がピークで、後半生の代表作がないのだ。顔がいいだけの男とちがって、演技力もちゃんとあった(と、私は思っている)だけに、ちょっと残念だ。
アラン・ドロンが亡くなってしまって、ドロンの闘牛士映画を見たかったなあ、と誰もそんなことを言っていないにの、私は今更ながら一人で残念がっている。
闘牛といえばスペインだ。スペインといえば、フラメンコだ。ドロンにも『ル・ジタン』という映画があった。出来は悪かった気がするが、ジプシーとかロマを描いた作品で、全編にフラメンコやマヌーシュ・ギターが流れていた。この映画、今、見たらどうなんだろうか……。
私が加入しているネットフリックスでアラン・ドロンを検索してみたら、一つも出てこなかった。こういう時には、ネットフリックスは役に立たないのだ。追悼特集でもいいから、ドロンの映画を配信してくれないだろうか。
しかし、今回もグダグダな文章だ。いろいろと悲しい。
合掌。