
なろうとしては、いけない
今日はほとんど一日在宅していた。にもかかわらず、オンラインのカウンセリング、ボディコネクトセラピーのセッションを数件、そして自分自身の分析もあったので、なんとなく忙しい一日だった。
夢分析では、とても印象に残る最近の夢について話し合いができた。
その中で、先生から、「(○○に)なろうとしてもうまくいかない。自分の中にある○○性を意識して、それを使っていく」という話があり、非常に今の自分に響いた。
いつもは、許可を得てセッションを録画しているのだが、そんな日に限って録画を失敗した私。
だからというわけではないが、ここに今の思いを書き記しておこうと思う。
私の中の「○○(性)」とは何か?と考えてみると、実にいろいろなものがある。似たもの、似ていないもの、相互に矛盾するもの、あれこれ。
「几帳面さ」「だらしなさ」「真面目さ」「不真面目さ」「従順さ」「反抗」「かたくなさ」「柔軟性」「男性性」「女性性」「明るさ」「暗さ」「さっぱり」「根に持つ」・・・・本当にたくさん。
どれもこれも、あれもこれも、確かに私の中にある。
そういった色々を、「良いもの」「悪いもの」といった価値判断をいったん置いておいて(・・・・・と書き始めたけれど、そんなこと果たしてできるのか?と思ったので少し修正。「客観的に」、「中立的に」といった形容詞を簡単に使うことには懐疑的な自分がいる。)
そういった色々を、「良いもの」であれ「悪いもの」であれ、私の中にあるということを認めること。無理に押し込めないこと。「今は○○を使っていこう」と「ちょっと○○な私で行こうか」という感じで生きていくことはとても楽そう、そして楽しそうで、想像するだけで元気になる気がする。
一方で「○○な私になろう!」と考えると、○○以外の私の部分が、「おいおい待ってくれよ、俺のことは忘れたのか?」と機嫌を損ねそうだし、なんか窮屈だ。
自分自身が、色々な○○でできている、と思えば、他の人もきっと色々な○○でできている、と思える。時に腹立つことがあったとしても、ああ今あの人の○○なところが出ているんだな、と思えば、少し余裕が持てる気もする。
そういうことを、知識として知っていたかと言われれば、「心理学の勉強してきたから知っていた」と答えられるだろうが、夢は、そのことをまさに今の私に対して、このタイミングで、ズバっと教えてくれる、という体験なのでとてもインパクトがある。
私の夢には、過去に出会った色々な人たちが出てきてくれる。もう何年も会っていない人、ほんの少しだけのかかわりだった人もいる。そういう人たちが、今の私の夢に登場し、様々なことを教えてくれているのがとても不思議だ。
好きだった人、嫌いだった人、苦手だった人、怖かった人、全員に感謝したい気持ちでいる。