人を「点」で見るべからず
友人に「教師がきらいだ」という人がいる。彼は教師にきらわれるタイプの子供だったらしい。小学生のころ、いたずらをしでかして、担任に怒られたはなしは秀逸だ。
担任「クラス全員、おまえが悪いと思っている」
友人「なら挙手をお願いします」
(手を挙げない人がひとり)
先生「ほら、おまえが悪い」
友人「全員ではありませんね。 先生は間違ったことを言いました。 まずは訂正してください」
(担任、ふるえながら彼をにらみ、平手打ち)
うん、なんというかクソガキだったんだろう(笑)。本人もそう認めているし。ただ、その担任に「先生がしぼっても1滴も水が出ないように雑巾をしぼってこい」と命じられたはなしは胸が痛くなる。華奢だった彼は雑巾をうまくしぼれず。そこで、日向で少し乾かして持っていった。しかし、担任は渾身の力で水滴をしぼりだし、「もう一度!」と彼に雑巾を投げて返したそうだ。いたずらをして怒るのはわかる(「全員が悪いと思ってる」という怒りかたや平手打ちはいかがなもんかと思うが)。ただ、この雑巾エピソードは、彼は何も悪くない。そして担任が、彼のことを憎んでいることがありありとわかって、聞いているだけでつらくなる。
彼が教師から煙たがられる子供であったことは想像に難くない。生意気で理屈っぽく、大人がいやがるところを突いてくる。だけど、裏を返してみれば、物怖じをせず、頭の回転が早い子供でもある。だって、「全員」という担任にむかって挙手で確認させろと要求したり、雑巾を日向で乾かすなんて考えを思いつくところは、子供ながらにあっぱれだし、キュートでさえある。
長年たずさわっていた教育情報誌の取材で、ある校長先生にこんな話を聞いた。
「子供を『点』でみたらダメなんです。つまり、現時点の姿だけで判断したらダメ。その子には過去があり、そして何より大切な未来がある。過去の何がこの子の『点』を形成したのか、そしてこの子の『点』はこの先どう進んで行くのか。点が形成する『線』、そしてそれがより広がりを持っていく『面』で、子供をみるべきなんです」
「でも、それがなかなかむずかしいんですけどね」と、その校長先生は笑って話してくれた。前述した彼も、線や面で彼をみようとする先生に出会えていたら、40歳過ぎても「教師がきらいだ」なんてルサンチマンを抱かずにいられたんじゃないだろうか。彼はいまだ理屈っぽくて、物事を穿ってみる傾向がある人だけど、情報通で知識も深く、アイデアマンで知恵がまわる、わたしの大切な友人なのだ。
この「点で見るべからず」は、子供に限ったことではないんだろう。大人も同じだ。気にくわないあいつ、を点でみるのではなく、線や面でみようとしたら、その人との新しい関係構築ができるのかもしれない。
まっ、それがなかなかむずかしいんですけどね(笑)。