いなくなった相棒の話
書くという行為は気持ちを整理することだ。今、私は自分の気持ちを整理するためにnoteに向かっている。多分、長い独り言のような文章になるだろう。
11月16日の夕方に、18年間一緒にいたちびさんが逝ってしまった。14歳頃から持病持ちで、毎日の投薬や1週間に1度の点滴をやってはいたけど、それなりに普通に暮らしていた。2000年生まれで、2020年の東京オリンピックまでは生きてると思ってた。なんの根拠もないけど、20歳まではのんびり暮らすんだろうって。
10月15日、大阪の日帰り出張から21時半過ぎに戻ると、ちびさんの様子が変だった。床にへばりついて肩で息をして苦しそうにしている。朝は普通にしていたのに。かかりつけの病院はすでに閉まっている時間だけど、先生の携帯に電話して夜間診療してもらうことになった。22時前に病院前で待っていると、先生がやってきた。診察台にちびを乗せると、先生の顔色が変わり「もしかして厳しいかも」と。診断は肺炎。すぐさま酸素室に入れられて、入院することになった。
翌日からも3日間、日帰り出張が決まっていて、早朝に家を出て夜遅くに帰宅だ。朝か夜、病院が空いている時間に3分でも行ける日は、様子を見にいった。先生曰く「まだまだぜんぜん安心という状況ではないけど、どっちかといえば回復傾向」。3日間ほどで酸素室を出て、ごはんも少量だけど食べたという話を聞いたときはホッとした。そして5日間の入院後、私の連日出張が終わった翌日に、ちびさんは退院してきた。
だけど食べない。。まったく。毎日、病院で抗生剤の注射、そして点滴をしてもらいながら、後は食べることが唯一の回復への道だと先生に言われていた。もともと小さい猫で、肺炎になる前も2.3キロしかなかったのに、退院してきた日には1.9キロ台だった。あまりに具合がよくならないようなら再度入院させるという手もあるけど、1.8とか1.7キロになったら、病院としてももう預かれない。そう先生に言われてからは、強制的にシリンジで餌をあげた。毎日、すごく嫌がられながら、食べないとダメだと栄養価の高いドロドロの餌をあげていた。どれだけ胃に物が入っていたかは定かじゃないけど、かろうじてちびは1.9キロ台をキープしていた。
ある日、ようやく食べ物に反応するようになった。だけど様子がおかしい。少し食べるんだけど、息が苦しくてあまり食べられないようだ。その日は朝、病院に行ったばかりだったけど、夕方にも連れて行った。ようやく食べたそうにしてるんだけど息が苦しそうで、と私が言うと、レントゲンとエコーで先生が調べてくれて、ちょっと困った顔で「胸水がたまってます」と言われた。肺炎で肺が壊れたらしく、その壊れたところから水がもれ、胸水がたまるそうだ。胸水がたまると息がしにくくなって、それで苦しがっているんだ、と。すぐに先生が胸水を抜いてくれた。部分麻酔で針を直接さして水を抜く作業だ。いつもは診察台で治療の様子を一緒に見ているんだけど、胸水を抜くときだけは待合室にいろと言われる。たぶん、かわいそうな光景だから飼い主に見せないんだな、と思った。胸水は100ミリたまっていた。先生の説明では、胸水を抜くと少し楽になるから、と。その言葉通り、胸水を抜いたあとは、ちょっとだけ食べるようになった。
その2日後、また胸水を抜いた。1回目と同じく100ミリ。胸水を抜く前の体重は1.86。胸水を抜けば、その分体重は減るので、ああ1.7キロ台になっちゃったなと考えていた。そして先生に言われた。「嫌なことを言うようだけど、もう厳しいと思います。そのうち、胸水を抜くのが間に合わなくなる」と。待合室で会計を待つ間、鼻の奥がツンとしてきた。かろうじてこらえたけど、病院を出たら無理だった。家まで5分の道のりを泣きながら帰った。
3度目の胸水を抜いた日は、体重1.7キロ。そしてその後に70ミリの胸水を抜いた。もう1.6キロ台だ。だけど3度目は、水を抜いたのにやっぱり息苦しさが変わらないように見えた。その次は2日後に病院に行く予定だったのだけど、やっぱり次の日の朝、病院に行った。息苦しさが変わらないように見えるんです、と。でも先生は、水は昨日抜いたばかりでまでたまってないですよ、と言う。ただ、所在なさげな私を見て、本当は明日からやってみようかと言っていたステロイドを注射してくれた。でも午後からもやっぱり息苦しそうで。私はその日、また夕方に病院に連れて行ってしまった。「肺炎がぶり返していませんか?」と。先生は肺炎がぶり返したのは考えにくいです。とりあえず、胸水を抜きましょう、と。まだたまってなくて明日でいいなら明日来ます、と言ったのだけど、「ちびちゃんも胸水抜けば楽ですし、たぶん松本さんも楽になります」と。針を刺すのはちびは嫌だろうに、私のエゴで2日連続、胸水を抜いてもらってしまった。その日は50ミリ抜いた。そして先生に言われた。1.5キロを切ると、たぶん歩けなくなります。その日もやっぱり泣きながら家に帰った。そして、覚悟してペットショップのコジマに行き、ペットシーツを買ってきた。いつちびが寝たきりになって、自分でトイレに行けなくなったとしてもいいように。その頃、コジマには2日に1回ぐらい通っていた。何か食べてくれるものはないか、喜んでくれるものはないか?といろんなものを買ってきた。ほとんどすべてちびは食べても喜んでもくれなかった。
相変わらず息苦しそうで、翌日も病院に行った。体重は1.56。ステロイドと抗生剤を注射してもらった。先生には、ステロイドがもしかして効いて、肺の炎症がおさまるかもしれないから、と何度か説明されていた。ステロイドは対処療法であり、根本治療じゃないんですよねという私に、先生は、確かにステロイドは対処療法なんだけど、重篤な炎症を抑えてくれることもあるから。今はそれにかけましょう、と言う。そして、本当にその日の夕方から、奇跡が起きだしたのだ。
息が苦しそうではなくなって、ゆっくりねれるようになった。そして何より、自分からごはんを食べるようになった! ごはんを食べるのはステロイドの副作用で多飲多食があるからだ。その次の日から以前とかわらないぐらいか、それよりも多いぐらい食べるようになった。ずいぶん具合が良いようで、足を高く上げて毛づくろいなんてしている。肺炎になってから、落ちる一方だった体重が初めて増えた。1.64キロ。前日と比べて80グラムも増えた。このまま体重が増えて胸水もたまらなくなるんじゃないか?と思った。事実、ステロイド注射をしてから胸水のたまりは少なくなっていたのだ。ステロイドって覚せい剤か? 魔法の薬だ!!と喜んだ。
でも魔法は2日間でとけてしまった。3日目から徐々に食べる量が減り、5日後にはほとんど食べなくなってしまった。もう、先生に厳しいと言われた頃から強制給餌はやめていた。嫌なことはもうしまい、と思ったのだ。だから、自分で食べないということは、もう回復する見込みはまったくないということだ。ただ、ステロイド注射は胸水のたまりを遅らせることには効果があって、前のように2日に1回抜くようなことはなくなった。いつも息苦しそうだったときと比べれば、ずいぶん楽なように見える。だけどもう、ちびが嫌がる病院通いをやめてあげたかった。ただ、ステロイドをやめるとまた息苦しさが襲ってくる。呼吸困難で亡くなるのはつらかろうと思い、ステロイドを投薬に変えられないか?と聞いてみた。ただ、その頃、たまに苦しそうにえずくようになっていた。胸がムカムカするような感じで、吐き気どめを打ってもらったりしたけど、治らなかった。本当はご飯を食べたいけど、吐き気があるから食べられない、そんな風に見えたのだ。先生は投薬に切り替えることはできるけど、ほとんど何も食べてない状態でステロイドを胃に入れると胃があれて余計にえずくかもしれない、と言われた。じゃあ仕方ない。ちびには申し訳ないけど、1日1回のステロイド注射には通うことにした。
毎日、体重は減っていき、1.5キロを切った。でもちびは少々おぼつかないけど、まだ歩いてトイレに行き、水は自分で飲み、好きな場所で寝ていた。ただ、その好きな場所が今までとは違う、寒いところだったり、自分のトイレだったりした。寒いところに寝るのは、体調が悪いとき体温を下げて体力を維持しようとしているそうだ。つまり、死ぬ前には寒い場所でうずくまるから邪魔をしちゃダメだとよく書いてある。あと、トイレで寝るのは不安なとき。自分の匂いがある場所に安心感を求めていくそうだ。トイレで寝るなんて18年間みたことがなくて、とても切ない気持ちになった。だけどもう、ちびが好きなようにさせてあげたかった。寒い場所やトイレで寝るのを見るのはつらかったけど、ちびは今そこがいいんだ、と思ってそっとしておいた。たまに横に座って撫でてあげたけど、うるさそうに嫌がるときはすぐに離れた。
ごはんは全然食べなかったけど、毎日、朝と晩に入れ替えた。いつも食べてたカリカリとパウチ以外に、コジマで買ってきたいろんなものを置いてみた。全部で5〜6種類並べて置いておいた。ほとんど食べないけど、1日1回ぐらい舐めてる日もあった。舐めた程度なので、必要な栄養なんてまったく取れていなかったけど。だけど、食べたいなら食べて欲しかった。それが生きるに値する量ではなくても、欲求として少しだけでも満たされるなら、それでよかった。お水はあったかいのが好きなので、1日に何度もお湯に入れ替えた。ありがたいことにお水だけはしっかり飲んでくれたので、それは救いだった。いよいよのときは水も飲まなくなるのだろうから。
その日は調子が良いように見えた。久しぶりに日向ぼっこをしていたし、よく眠れているようだった。食べない以外は以前と変わらない様子に見えて、近いうちに死んじゃうなんて信じられないなと思っていた。もう、できるだけゆっくり過ごして欲しかった。それだけが私の願いだった。ただ、夕方になるとたまにえずいて、落ち着かない様子でウロウロしはじめた。それが少しおさまったときに、病院に連れて行った。体重は1.4キロ。その日は1週間ぶりに胸水を抜いた。50ミリ。1.3キロ台か。えずくのが治るように、今日はステロイド以外に吐き気どめの注射もお守り程度にやってもらった。
そして家に連れて帰ってきた。食べないのは知ってたけど、エサを入れ替えた。その間、ちびはこたつのあたりで伏せていた。病院から帰ると、しばらくぐったりした様子になるので、それはいつもの光景だった。
突然、えずきだした。たとえれば、喉にものが挟まって取れなくてもがいているような仕草。もちろん何も食べていない。心配で近寄ったら苦しみながら物陰に隠れた。痙攣している。おかしい。どうした? もう診療時間を15分ほど過ぎていたけど、病院に電話したら先生が出た。先生、ちびが痙攣してるんです。と言ったあたりから動かなくなった。1回、口呼吸をした。先生が、呼吸してますか?と聞く。呼吸は……。お腹が動いてなかった。その後、もう1回、口呼吸をした。それが最後だった。多分、えずきだしてから3分も経っていない。胸水は抜いたばかりで、何が悪かったのかわからないけど、たぶん、呼吸困難で亡くなったようだ。
電話を切って、泣きながらちびを座布団の上に置いた。死ぬと体液が出てくるというけど、しっぽが少しだけおしっこで濡れてるだけで、ほとんど何も出てこなかった。死後硬直が始まると目が閉じられないと書いてあったので、見開いた目を一生懸命閉じた。口も半分開いたままだったから、口もぎゅっと閉じた。ただ、どうしても足だけは折り曲げられなくて、ピーンと伸びたままだった。ウエットティッシュで体をきれいに拭いた。いつも寝ていた猫ベッドに移して、横にパウチとカリカリを置いた。ごはん食べたそうだったから、思う存分食べてほしいなあと思って。
1.3キロ台になってもちびは歩いていたし、一度も粗相もしなかったし、ペットシーツは無駄になった。水も飲まなくなったら、切なくてみていられないなと思っていたけど、水は自分で飲んでた。最後に長い時間苦しむのをみているのは辛いだろうなと思ってたんだけど、あっけなく逝ってしまった。なんにも私の手を煩わさずにいなくなってしまった。
火葬は移動火葬車というのをお願いした。明日の20時以降しか空いてないと言われ、それでいいですと言った。お別れのセレモニーがあるそうだ。完全立会いで火葬後に骨を拾うコースもあったのだけど、骨を拾うのがつらくて、一任して骨を火葬後に届けてくれるほうにした。夜は布団をしいて、その横にちびを置いた。顔を見れなくなるのが寂しかったので、スタンドライトをつけて寝た。もともと私はベッドで寝ている。夏だけはちびは自分の猫ベッドで寝るが、春と秋は私の枕元、冬は私のベッドに潜り込んで寝るのがいつもだった。でも退院してきてからちびは一人で寝たがりベッドには来なくなった。あと、寝室にある猫ベッドではなく、よく別室のこたつのなかで寝ていた。だから安い布団セットを買った。コタツのある部屋で一緒に寝ようと思って。願わくば、以前みたいに私のふとんに潜り込んできてくれないかなと思っていた。一緒に寝るときのちびの愛らしさは、何にも変えられないから。私のことを信頼し切って、安心して眠る様子は、本当に愛しかった。でも、布団を買っても、ちびは一緒には寝てくれなかった。その代わり、布団の横に掛け布団を畳んで置いておくと、その上で寝るときがあった。私は厚着して毛布だけで寝て、ちびがいつでも掛け布団の上で眠れるようにした。前みたいに体を密着させて寝るわけではないけど、すぐ横にいてくれるだけでうれしかったから。
次の日は、ちびのいる部屋で過ごしながら、時折撫でたり、抱っこしたりして過ごした。保冷剤を敷いていたせいもあり、ちびの体は冷え切っていたけど、毛は変わらずやわらかくて、本当にかわいかった。触ると骨の形がわかっちゃうぐらい痩せてガリガリだけど、やっぱりちびはかわいかった。焼いてしまうなんてもったいないな、と思ってた。夕方、花が届いた。午前中に動物病院に行って先生にお礼を言ってきたのだけど、夜に火葬すると話したので、病院からお花を贈っていただいたのだ。花屋さんから電話が来たときに、少し泣いてしまった。
移動火葬車は予定よりちょっと早くついた。お別れのセレモニーってやつが、かなり滑稽だった。神妙な面持ちでやってくれる担当者には申し訳ないんだけど、笑わないように我慢するのに必死だった。末期の水とか、念珠とか。なんか、そのバカバカしさに救われた。
近所のコインパーキングに停めてあるという火葬車まで、ちびを抱っこして連れて行った。火葬車に横たわらせたときは泣けて仕方なかったけど、お別れのセレモニーでちびの脚につけさせられた念珠を途中で落としてしまったようで、担当者が念珠は?と聞くので、また笑いそうになった。そんなものいらないです、って言いたかったんだけど、担当者は新しい念珠を私に渡して、やっぱりちびの脚につけろ、という。仕方ないので、左前脚につけた。他の脚先は白いけど、左前脚だけ小さい茶色の模様があって、私はそれをシミ、と呼んで気に入っていた。
火葬車はモータ音が大きいらしく、住居の近いコインパーキングでは近所迷惑になるから別の場所に移動します、という。90分はかからないぐらいで、またご自宅に伺います、と言われ、私は自宅に戻った。
1.3キロしかなかったし、すぐに焼けちゃったんだろう。90分どころか、1時間もかからないぐらいでちびの遺骨は戻ってきた。葬儀特典?みたいなちゃちなグッズと共に。ちびの写真で作ってくれたキーホルダーは、ホントにちゃちなものだったけど、それでもうれしい気持ちにはなる。ペットビジネスおそるべし、だ。
フリーになって約一年だが、私がフリーになった理由のひとつに、ちびの最期を看取りたい、という理由があった。ちびがこれからもっと老いていくなかで、勤めていたら困ることが出てくるだろう。なるべく家にいて、そういうときに一緒にいれる態勢をつくりたかった。まあ、だから願いはかなったのだ。ちょうど、退院してきてからは家でやる仕事が中心で、ほとんど24時間、一緒にいれた。それは本当によかった。フリーになって肺炎にかかる前までも、今までは過ごせなかった時間を共有できて、楽しい思い出もたくさんできた。だから、ホントによかった。
まだまだメソメソしたり、耐えがたい寂しさが襲ってくることはあるけど、想像していたより早く元気になれそうな気はしている。それは、最後に私が出来る限りのことはやれたと思うからだ。ちびにとっては嫌なことも多かっただろうし、あのとき違う選択をした方が良かったのかな?と思うこともたくさんある。そもそも、あの日出張じゃなければ、もっと早く異変に気付いて、ひどくなる前に病院に連れて行けたのに、と悔やむ気持ちも強い。だけど、それはもう考えても仕方ないことだ。毎日、悩み、悲しみながら、私は選択をした。ちびにとって、私が最も良いと思う選択を。間違った選択もあったのだろうが、唯一間違えてないのは、私がちびを愛しく思い、そこにただただ忠実に選択したことだ。だから、もう後悔はしない。
猫をウチの子と表現し、自分をママと言う飼い主は多いが、私は母性本能が薄いのか、ちびをウチの子と思ったり、自分がちびのママだとか、そんなふうに思ったことはない。ちびは私にとって、かわいい人であり、気の合う仲間であり、大切な相棒だった。二人してのんきに自由に18年間も一緒暮らせたことが本当に幸せなことだったと思う。
いつか私も死ぬが、ちびは虹の橋で待っててくれるだろうか。ペットが死んだら虹の橋で飼い主がくるまで待ってる、というあの話は、誰がいいだしたかわからない話らしい。人間が行き場のない気持ちをおさめるためにつくりだしたおとぎ話だけど、それで救われる人がたくさんいるなら、価値はある。ただ、なんとなくちびは待ってないような気がしてる。私のことはそれなりに愛してくれていたと思うけど、なんとなくそう思うのだ。そして、それでいいと思ってる。もう苦しい時間は終わったのだから、思う存分、好きなようにのんきに過ごしていてほしい。ただ、ちびは待っていなくても、私が探しにいくかもしれない。そのときは、また一緒に日向ぼっこしようよ。
ばいばい、ちびさん。たくさんありがとう。ホントにありがとうね。