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甲骨文字研究小史
甲骨文字の研究が始まったのは比較的新しく、伝承によればその最初の発見は1899年のことだったという。清末期のこの時期、国子監祭主・王懿栄のもとに食客として身を寄せていた劉鶚(劉鉄雲)が、薬屋で竜骨として売られていたものに文字らしきものが刻まれているのを発見した。劉鶚は金文学と呼ばれる、古代の青銅器や石碑に刻まれた文字を解読する学問に通暁していたため、これが古代文字よりもさらに古い時代の文字であると直感した。そこから様々な甲骨・竜骨を買い集め研究を進める中で、刻まれている文字が十干に基づく人名であり、司馬遷『史記』に記載されている殷王の系譜に一致するため、殷代の文字であることが確定した。1903年には拓本をまとめた『鉄雲蔵亀』が出版され、それに触発された孫詒譲が『契文挙例』を出し、自らも発掘に赴いた羅振玉は拓本の『殷墟書契』、解釈を論じた『殷墟書契考釈』を出版した。日本では東京高等師範学校の林泰輔が1921年に『亀甲獣骨文字』を出版し、これが日本における甲骨文字研究の濫觴とされている。
国子監というのは隋から清代にかけての最高学府のことで、祭酒は学制の長官の意なので、日本における大学頭に相当する。今風にいえば文部科学省事務次官のようなものか。1900年に義和団事件が発生すると、王は責任を取って井戸に身を投げた。
王懿栄は大変人望の厚かった長官で、彼が訪れた先の学校では多くの人が彼の名を叫んで歓喜した。清末に中国に来ていた英国人もこれをまねたため、歓声を上げる表現は英語でOh yeahとなった・・・とは民明書房の伝。
竜骨に刻まれていたものにたまたま気づいたというような話もこうした与太話と大差ない作り話のような気がするが、ともかく1903年の『鉄雲蔵亀』が甲骨文字研究の劈頭を飾るものであることは間違いない。
殷墟から甲骨が出土するまでは後漢の許慎『説文解字』が字源学・字形解釈の聖典であったが、あくまでも字形だけから類推したものが多いため甲骨に刻まれたものとは異なる説を紹介しているものも多い。これを甲骨の知見をもとに刷新したのが白川静の『説文新義』である。『説文解字』に収められた9,353字すべてについてその解釈を再検討したものである。