みんな違ってみんないいとは思えれど
社会生活・集団生活のなかで、何らかの壁となるのは、人間関係だろう。
仲良しこよしや、好き嫌いでは簡単に通過できないドアが、
無数に設置されている。
自分が持つ能力を理解し、達成したい目標が明確にあれば、
開けるドアを選択することもできるのかもしれない。
そんな人は、間違いなく成功しているんだろうな。
でも、そこまで考えて仕事してなかったし、
年を重ねてそこがなんとなく理解できてきたとしても…
やっぱり、嫌なことは嫌だし、合わない人と合わせるのは苦痛だし。
いろんな人がいるから、いろんな考えはあって当たり前。
そこは、切磋琢磨したり、時にはぶつかり合ったりしながら、
受け入れてもらったり受け入れたりする。
そんな会議室直行のドアは開けてきたように思う。
その中で必要なら、個人面談室のドアも開け放ち、自由に出入りできるよう
案内表示もしてきたつもり。 利用者も少なからずいたかなと。
仕事関係のみならず、友人関係も、ご近所付き合いも然り。
いくら考え方が違っても、そこを認めあっての付き合いは、楽しい。
適当に受け流せるならいいのだろうが。
私は、言葉をしっかりキャッチしてしまうので、
なかなか面倒くさくなるのだろう。
隣の席の同僚が、小声で違う同僚の不満をこぼしたとする。
ふーん、そうなんだ と返事をすると、なぜか、
同意されたと思われてしまう。
すると、味方を得たとばかりに不満から悪口へ移行していき、
小声から普通の声になり、最悪の場合、仲間意識から
相手に攻撃を仕掛けることもあるんだ。
毎日毎日、左側の席から右側の席の悪口を聞くのは、堪える。
それが嫌だから、不満を受けたときは
そうなの?私はそう感じなかったけどな と返事をする。
違うんじゃない?とは、言わない。 それはまた、話しかけてきた相手を
否定することになるから。。そこが難しい。
それでも繰り返されるときは、さすがに、
両立の立場を前面に出す発言をする。
そっか、そんなことあったんだ。
私は感じなかったけど、それはやりにくいね。
今度それとなく話してみようかな?
このままだと、他にも困る人いるかもしれないしね。
するとさすがに、エスカレートはしなくなる。
それで収まる場合(相手が違うターゲットを見つけるとか。その場合、こちらには自分以外の人間関係情報は全く入ってこなくなる)と、
相手もつまらないから、あの手この手で別パターンを仕掛けてくる場合があったりする。
できることならゆっくりと、どうしてそんな不満を持ったのか、
どうしたいと思っているのか聞いてみたい、聞かせてほしいと思うのだが、
相手がそこまで話したいわけでも悩んでるわけでもなく、
ただ単に感情を言葉にして、自分の中から解き放ちたいだけだったりするから、ドアだと思って開けたら壁だったり、らせん階段でついた先は行き止まり、みたいな感じだ。
それでも、時には開けたくない扉も 開けざるを得ない場面もあるし、
逆に、嫌々開けたら素敵な応接室だった、なんてこともある。
好き嫌いじゃいけない、社会人だから、大人だから、うまくやらなくちゃ。
そう考えてはみたものの、ダメージは消化吸収できないことが多くて。
うん、嫌な人は、嫌でいいかな、もう。
合わない人とは、自分が合わせたいと思えた時だけ、努力してみようかな。
必要とされるのは嬉しいけど、利用されるのとは訳が違う。
もういいかげん、学ばなくちゃ、だ。
みんな違って、みんないい、それはもちろん、その通り。
世界中の人がそう考えてくれるようになったら、戦争もなくなるしね。
そこは忘れず肝に銘じながら、その日が来るまで、
みんな違っていいけど、嫌なものは嫌な自分もいい!事にしとこうと思う。
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