葉っぱ

この世界の仕組み、真理を学び日常生活で実験を繰り返してます。思考、引き寄せの法則、潜在意識、量子力学、バガヴァットギータetc。リラクゼーションセラピスト。

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この世界の仕組み、真理を学び日常生活で実験を繰り返してます。思考、引き寄せの法則、潜在意識、量子力学、バガヴァットギータetc。リラクゼーションセラピスト。

最近の記事

新たな「わたし」と新たな「世界」へ

いつの間にか10月に入っていた。 新たな仕事が始まった。 確実に「わたし」の目の前の「世界」は変わったと感じている。 7月に立ち止ってから3か月。 今までも自己探求をしてきた。 さらに深く掘り下げて、恐れ、不安の「核」となっていたものに気づき、 悲しみ、怒り、焦り、不安そして恐れ、さまざまな思考と感情を体験した。 正直しんどかった。 未消化の傷、インナーチャイルド、いろいろ言い方はあるだろうけれど、 それらがほぼ取れたのだろう、 「わたし」と「この世界」の仕組み、 3年

    • 自分自身を知るとラクになってきた

      何度も何度もnoteでの投稿を試みたものの、うまく言語化できず下書き保存されているお蔵入りの記事を、過去の分の含めてすべて削除した。 うまく書かないと、きちんと本を読み込まないと、と、正しさ、完璧さを叩き込まれた思い込みが、「気づき」はしたものの、長年の思考ぐせはそうすぐには剥がれ落ちない。 そんな自分にも気づいて、「そうだった、そんなに正しく在らなくていいよ~」と自分自身に声かけをする。 そうやって日常の中で、しんどかった自分の思考グセに気づく、そして緩めていく。「手放

      • 東京に行ったら宇宙視点を得た話

        8月に入って最初の週末に、宅浪(自宅で浪人)息子の付き添いで東京へ行ってきた。 大学のオープンキャンパスに行きたいと3月4月ごろから何度も何度も聞かされていたからだ。 3月4月ごろの私は、仕事を辞めるなんて思っておらず、旅の予約をする一ヶ月前、ちょうど仕事を辞めた頃のお財布事情はキツキツの状況で、 ましてや本当のわたしは休みたい、と訴えてたもんだから これからの収入のめどなども全く無い状況である。 かなり、、、、、、、、迷った。 こんな状況下で東京へ行くことへの非難の声

        • 自己肯定感をゆっくり育てる~その2~

          前回の記事で自己肯定感の一つ、「自尊感情」について中島輝さん著者の『自己肯定感の教科書』を読んだ感想と自分なりの考察を記事にしてみました。 著者はこの本の中で、自己肯定感を  「一本の木」にたとえて説明してくれています。 「自尊感情」は木にたとえると、 「根っこ」のようなもの。 根っこが深くなければ木は倒れてしまうと。 本当におっしゃるとおりだなあと。 根っこを意識して育てていこうと思う。 前回の記事はこちら↓ で、今回は二つめの「自己受容感」について。 自己受容感

          自己肯定感をゆっくり育てる~その1~

          これを見たとき、新しい感覚と同時に奥底にしまっていたものを思い出したような感覚になった。 そうだよね、そうだった。 インドの聖典でも そもそも私たちは 「ブラフマン(普遍的な存在)であり、 満ちている存在」と伝えている。 なのに、朝起きた瞬間に思考が働き、何かにつけて「罪悪感」を感じさせてくる。無意識に無自覚に とくに自己肯定感が低い人には何かにつけて 「罪悪感」がつきまとう。 そうこうして生きているうちに、この 「自分には価値がある」感覚なんて こころの奥底にしまい込ん

          自己肯定感をゆっくり育てる~その1~

          時間をかけて自分を丁寧に観ていく

          とはいえ、昨日の記事の中で 「わたしはわたしのままでいい」 「あなたはあなたのままでいい」と言われても あたまでは分かるけど、体感として落とし込むにはやはり 自分を丁寧に観ていくことが必要で、 それにより自分自身が癒され、 さらに この世界の真実の理解も深まる、と思う。 昨日の投稿はこちら↓ 自分を丁寧に観るって? 潜在意識の中にある「信念」や「観念」 「~ねば」「~べき」 そして自己肯定感。 信念:自分の中で何度も何度も繰り返し信じてきたこと。それらは主に育ってきた

          時間をかけて自分を丁寧に観ていく

          自分にとっての心地よさが見つかった!

          それは、「自由な時間」。 何をしてもいい、何も制限なく過ごせる時間こそ 自分にとっての幸せであることを この3週間、仕事を一旦リセットして日々過ごした中で出たこたえだった。 そして、今日。 お久しぶりに会う方を通じて、もっと宇宙に投げかけていいよと教えてもらった。 まだ、地の時代の思考が残っていたことにその方を通じて気づく。 どうしても自分でこの現実を動かさないと、 と思考を働かせてしまう。 迷っていることは、宇宙に問いかければいい。 もっとゆだねていい。 そもそもひと

          自分にとっての心地よさが見つかった!

          日常の当たり前に感謝し慈しむ

          完全フリーになって4日目。 「明日」に追われない日常がとてもありがたくて 慈しみ味わっている。 今までは朝目覚めても重だるい身体をなんとか奮い立たせてたし、そんな状態だから意識は「今ここ」になく起きた瞬間から「思考」が活動を始める。 瞑想を朝やるのがいいのは、「思考」がフル活動を始める前に坐って呼吸に意識をむけることで状態が調うから。 朝の状態でその日一日の意識が決まってくるから。 そして夜も状態を調えるために瞑想をやると、 次の日朝の目覚めたときの状態も変わってくる

          日常の当たり前に感謝し慈しむ

          「思考の声」に早く気づくようになると日常が楽になる

          大きな変化をしようとすればするほど、思考の声(ほとんどがネガティブな声のぬし)が強力に働きかけてくる。 わたしは仕事を、やめた。 決断までの約2ヶ月、不安と恐れにまんまと捕まってしまいどうにもこうにもならなかった。 あとから、思考というのは考えても考えてもわからない、「わからない」ということが「わかった」 という動画に出会い、まさに!という感じで腑に落ちた。 苦しかったけれども、そのおかげで「思考の声」に いち早く気づくことができるようになってきた。 だから、そこに掴まれ

          「思考の声」に早く気づくようになると日常が楽になる

          軽やかに受け取れることができれば軽やかに与えられる、それが循環、それこそが本質

          先日、末吉さんと川口真目さんのセミナーに参加してきた。せっかく関西に来られるということなので久しぶりにお目にかかりたいと思ったからだ。 セミナーの内容は 「note×ChatGPTで自分らしくマネタイズ」 ぶっちゃけ、申し込みした時はあまり興味がなかった笑 以前にも少し活用する話は聞いていたけれども どちらかというと、否定的だった。 セミナー参加前に少々のお休みがあって とことこん「現実創造」を探究していた。 だからだろうか。 スルスルと話が入ってきたし 聞いてて希望

          軽やかに受け取れることができれば軽やかに与えられる、それが循環、それこそが本質

          シャンパンが教えてくれた母の深い愛

          4月下旬に自分にとっては大きく舵を切る決断をした。 そのせいか、日々自分の思考に不安が押し寄せてくる。 そんな中、今日は母の誕生日だった。 朝から妹と姪っ子と実家を訪ねた。 娘2人が揃って来てくれたことに顔には出さないものの、母は嬉しそうだった。 妹が作った米粉のケーキを食べながら、母の身体の話になり、尾骨が出ているから体勢によっては痛いという。私は何気に触れてみる。 確かにすぐに骨だと分かるしそのすぐ上には仙骨だなとも分かるぐらい骨骨しかった。母の身体は様々な病気や症状

          シャンパンが教えてくれた母の深い愛

          ただ起きているだけ

          急いでいる時に前に歩いている人の歩く速度が遅くて急ぎたいのに進めない時、 「早く歩いてよ〜、もう」「なんでそんな歩くの遅いのよ〜、こっちは急いでるのに〜」などと思考し、そこに感情が現れる。 苛立ちとか怒りとか。 遅くに仕事から帰ってきて、台所に食べた後の洗い物が溜まっているのを見て 「自分が食べたものぐらい洗ってよ」と息子に 怒りをぶつける。 分析してみると 仕事から帰ってくる(疲れた〜) ↓ 山盛りの洗い物を視覚する ↓ 自分で食べたものは自分で洗うのが当然との 思い込

          ただ起きているだけ

          マンパワーだけではないチカラの存在

          この一文に魅了されて前のめりに申し込んだ末吉さんの講座。そこで先着3名特典のコンサルを受けて 「パラレルを早く移行したいのなら、今の自分がちょっと恐いなと思うことを思い切ってやってみるという方法もある」というような言葉をいただき、 思い切って休みを増やしたのは昨年6月。 個人事業主なので当然休みを増やすと収入も減る。 その頃のわたしは自分が稼がないと!頑張らないと!と身を差し出してお客様に向き合ってた。 セラピストはそれが当然とさえ思い込んでいた。 ただ心身は疲弊しいつも「休

          マンパワーだけではないチカラの存在

          やるべきことがわかった

          3月が今日で終わる。 淡々とやるべきことをこなしていたのにもかかわらず、仕事で腰を痛めてしまった。 痛みをまだ俯瞰、観察できるまではよかった。 アーユルヴェーダのファスティングをし、欲望の強力さを実感しコントロールする難しさを痛感したり。食べることは、本来その料理を味わうもの だけれど、何かと向き合うことの恐れや不安から 一時的な快楽を求めては食べて満たされる、そういうことを無自覚に繰り返していることを知れた。 ただ痛みが俯瞰できないぐらいになってしまうと 思考も感情も欲も

          やるべきことがわかった

          すべてはあるという安堵感

          すべてはある、"ある"を意識をすると、あったかい部屋で過ごせているし、ご飯も食べることができるし、仕事もあるし、箇所箇所で痛みはあるけど 身体は動くし、自由に移動できるし、と既に全て "ある"ことに気づくことができた。 今までは、足りない!もっと!さらに!という 欠乏感でいっぱいで、だけどどれだけ頑張っても どれだけ働いても、どれだけ食べたい物食べても それらは一時的な満足感でしなく、それよりも 心身の疲労の方が酷くなっていた。 この世の真実を知り、それらを日常での気づき

          すべてはあるという安堵感

          本当のわたしと自我のわたし

          本当のわたしは、常に希望に溢れていて、なんの疑いもなく、自由な発想をしている。 好奇心旺盛で、なんでもやってみたい! 常にキャッキャとはしゃいでるイメージ。 自我のわたしは、その自由奔放な本当のわたしを いつもネガティブな思考で制限してくる。 怖さを感じさせてくる。 だけど、最近は、この二元の世界での経験をするにあたり、あまりにも本当のわたしは無鉄砲だから、危険な目に合わないようにセーブしてくれて、 人からの嫌な言動にも、必死に本当のわたしを 守ろうと頑張ってくれてたんだ

          本当のわたしと自我のわたし