母方の曾祖父と曾祖母
母方のおじいちゃんは、私が生まれた時には、もう他界していた。
おばあちゃんちには、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんと、おばあちゃんと、母の弟が住んでいた。
母の妹が住んでた時もあったかな。
おばあちゃんちは、玄関を入って、一番奥に母屋がある。
築100年以上の昔ながらの平屋。
仏間があって、昔使ってたお台所があって、蛇口からの水は井戸水。
屋根裏は物置になってて、上がるときは折りたたんである階段を下ろして、上がる。中は真っ暗。
仏間の所の縁側から繋ぐように新しい家を増築していて、そちらは最近の感じの2階建てで、今の玄関もこちら側にある。
母屋の台所の横の広い土間は、今の台所とも繋がっていて、今は勝手口としても使用している。
母屋と増築した家の間に中庭があって、そこには小さな池もあって、昔は鯉がいたと思う。
いつの頃だったが、水を入れなくなって、形だけの池になってしまっていたけど。
母屋の仏間の縁側の端に、昔使ってたトイレがあって、出たところがちょうど中庭の一角で、手洗い用の手水鉢が置いてあって、そこに赤いサワガニがいたのを、よく覚えている。
ひいおばあちゃんとひいおじいちゃんは、母屋の方で寝ていて、おばあちゃんや母の弟妹は増築した方で寝ていた。
ひいおばあちゃんは、私の記憶の中では、もう寝たきりで、でも、まだ少し話は出来たと思う。
私がまだ小さい頃に亡くなったので、三姉妹のうち、私だけ、ひいおばあちゃんの記憶がある。
亡くなった時も、病院とかじゃなくて、自宅で看取った。
お葬式の記憶も少しあって、どこかの会館とかではなく、家でお葬式をやったんだけど、なんかすごい人がいっぱいいた、というのだけは覚えている。
ひいおじいちゃんは、ひいおばあちゃんが亡くなった頃はまだ元気で、普通に生活していたし、おしゃべりした記憶もある。
背が高くて、痩せてた立ち姿や、お台所の決まった席に座って、ご飯食べてた姿。
近所のかかりつけのお医者さんが、定期的に往診に来てくれていたんたけど、黄色いビートルに乗ってきていて、家の外に停まっていたのが、とても印象に残っている。
寝たきりになった頃には、私はもう学校に行ってて、一番下の妹だけが昼間おばあちゃんちによく行っていて、ひいおじいちゃんに水差しでお水を飲ませてあげていたらしい。いまだに、ひいおじいちゃんの話になると、妹はこの話をよくする。
ちなみに、母方の実家は本家で、代々当主が「〇〇四郎右衛門」(〇〇は姓)という名前を継ぐことになっていて、ひいおじいちゃんは、この名前だったので、みんな「四郎右衛門さん」って呼んでたし、郵便物の宛名もこの名前だった。
小さい頃は、その辺の事情がよく分かっていなかったから、
"ひいおじいちゃんは昔の人だからこんな時代劇みたい名前なんだなあ"
って思っていた。
少し大きくなってから、代々名前を継ぐって話を聞いて、そういうことだったんだと理解した。
本来なら、私が生まれる前に亡くなった祖父が、次の「四郎右衛門」を継ぐはずだったんだろうけど、早くに亡くなってしまっている。
母は弟と妹1人ずつの3人姉弟なので、名前を継ぐなら、この弟ということになるけど、ひいおじいちゃんが亡くなった時にはまだ若かったし、長いこと独身で、結婚したのも遅かったというのもあり、子供もいない。
母の妹と弟には子供がいないので、もし次に継ぐとなると、母の子供だけになってしまって、つまり、私達三姉妹な訳で、現実的には難しい。
それに、昔みたいに、本家と分家があって、親戚も大勢で、頻繁に集まるってこともなくなったし、何より、今となっては、相続するほどの財産がある訳でもなし。
ということで、「〇〇四郎右衛門」の名前は、ひいおじいちゃんで最後となってしまい、少し寂しい気もするけど、私が責任持ってどうにか出来ることでもないから、しょうがない。
ひいおじいちゃんが亡くなった時も、自宅で看取って、自宅でお葬式をした。
この頃は、私ももう小学生だったので、色々覚えている。
この時も自宅でお葬式をして、お食事の時は、母屋の仏間だけでは座りきれなくて、増築の方の床の間にも用意して。
お食事は、仕出し屋さんにお願いしていたけど、お膳にセッティングするのは自宅でするし、お汁も温め直してお碗に入れたりで、お台所はてんやわんやだった。
私は、同年代のはとこと遊んだり、色んな親戚としゃべったりして、ウロウロしてたと思う。
ひいおじいちゃんが亡くなった後は、何回忌とかに合わせて法事したりする以外は、そんなに親戚一同が集まることも少なくなっていって。
もっと、色んな親戚に、ひいおばあちゃんやひいおじいちゃんのこと、聞いておけばよかったなあ、と今更ながら思う。
次回、日本に帰国したら、今のうちに母親に色々聞いておこう。
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