無くなった魂か命の鎖
明るくても暗くても安定はある、それによって安心ができる。不安はそのどちらも打ち消してしまう不安要素。
頭は分かってないのに身体は感じているというその違和は、現実の状況を的確に見て常識的に妥当な判断基準を通った上でなく、思い込みによる先走った行動ともとれ、頭つまり理想(妄想)が先行しているのに身体(きちんとした体裁、法則、手順)を忘れて丁寧さに欠いている。
身体の動かし方を忘れた、それは望んでなったわけじゃない、思想的な精神と肉体的な精神、けど。宮崎駿さんが一方的ではあるもののそうおっしゃったのには繫がりがあるかもしれない。それが基本としてなっていないという言葉にできない漠然とした感覚だったのだ。
友人と会おうとするのも会話をするのも会話のなかで訂正したり質問したり、また関係を築こうとするのも感じ得ぬ抑止力として正し目に食い止めてたように思う。
それを親に言われたからって無視できてまでやっちゃならんかもしれん。
自分は勘違いをした、感じ方の。燃え尽き症候群だってみなされたがむしろそっちは不安定に安定状態でもあった。自身を自分で治めてメタ認知が働いていたことになる。自身はやる気のない無能。バイトの時もそう、出さないよう過ごした。言葉ではちゃんと理解してないが身体が理解してたから。
だけど、この間、頭が(無意識に不安定に)活発になることで身体(前述や理論)よりも先行してのさばってしまった。留めて置けなくなった、貯めずに吐き出した、鈴木敏夫さんは心のなかでもっているとそれが育ってくると言うような話しをされてた。自ら誤った熱意に基づいて他者への思いを口実とした、余計な行為。守ることの一つは蓄積することだった。
おかしいとおかしくないがバランスをとれていない状態、おかしいが強まりすぎてもそれは常識的に考えうるのを無視していなければ、受け入れることの出来る可笑しさとなりそうだ。ただ不安が見え隠れした人物が頭目なくすると支離滅裂になって当然受け容れがたく可笑しくない。
そして言ってはいけない、ならないこと、知らせてはならない、いけないことを伝えたのも同然、他者に対する侵害、心外な負担となるのではないか。物事には順番などの道理がある。それを測るものさしを失ってわからない現実を、見誤ってまでする行動ではない。守るもう一つは距離感だった。
それは、流れに逆らわずかつ無理に近寄らないことだ。会話の地図の前に人との間にある重力をなおざりにしてはならなかった。重力の無視は尊重の欠如や満を持そうと待つ機会を破壊。草から何が芽生えるかを偲ぶ前に踏み通るのにも似た無念。
視力と目はそれぞれあると思う。ただ相互の相乗作用が広大で、その作用が働かない感覚との違いは、表せる力がなくて言葉にできない。視力落ちても審美眼的なものは精度が落ちても無くなりはしにくいと思う。人は誰しも冴えた眼をしているように思え、相手の表情などの真意や背後、人間に対する非言語的な洞察は鋭さがある。
求められたり聞かれたりしたときに応じるのが妥当だったのだ。思い違いだ、つまり、もし声をかけてくれたり何かを質問してくれたりしたときには、たとえ何も言葉が出なくなってしまった脳みその状態であろうが、それは傍から見れば変化のないことである。なので、せめて関わって問題なかったかもしれない。ただ、関わるときに気をつけなければならないことも分からなくなってしまった状態に陥っているのでやり過ごせないと思った。その理由もあって自分と相手が対峙する展開をなるべく避けた。
極端なことは自らによって極端にされるが、もし自身の状態を相手に近づけることが危険かどうかの判断を遅らせるか、安全か危ないかの二択で鬼気迫られる身をぼうっとしてみる(牛やクラゲ等)ことが出来ればまだやりようはあったかもしれない。
間違った、何年も守った理を破ってしまった。やる気のある無能。彼等が離れる方が彼等にとって余計ない不安や心配、ストレスを受けなくてすむ。てさんが握手会で三さんに対する対応の様子。
一歩先二手先は現実味があるから成り立つわけで、状況把握もしてない出来ない頭も含めたカラダで決断を下せてしまうことの大多数が空回りな相手の気に触れるのに気づく必要がある。
小学生おわりまでに構築された自分は霧散し残るは断片。中高に至っては、視力低下の進行と幼退化。判断材料が自分に壁が迫るように足らなくなっていっているのに気づけなかった。
赤ちゃんの視力は0.2くらいらしい、 は私情の漏れた存在でわめいてしまった。私情のわめきで場の秩序を乱した。
気づいた頃にはずっとしていた常同行動も小学生では全く、中学生では笑えないその習慣も持続は平行続きであったが、事実上の乖離は高校の時期で甚だしくなっていったわけでもない。昔からゲームか動画くらいしか、行き先として自己内で強い密着関係になっていなかった。善悪に基づいてしてたのではない、ただしてた、することで何とか人としての活力を補っている感じだったようにも捉えられる。しかし、自己管理の問題だと仰られれば立つ瀬がない。浜辺のない海。
欲望は自分自身が求めるどんなちいさなことでもかけがえのないものであることだった。画面に向かい続けることで生活に向かうが心の消耗はあった。現実逃避という名前は、自身の身近な現実を認められるエネルギーを、他の現実行為によって紛らわしていたとも言え、欲望の煮え切らない代替。現実の出来事ゲームと動画以外の選択肢は毛頭なかった。しかしながら、途中の道では数え返せないが偏りを修整しようとしてくれていたのにも気づけない有り様で。深刻になるのはどこまでもとどまりがないから。不安の餅つき。周りをやっぱりよくみてないでちゃんとした生活をしてないから。
手段として認識して自己管理が出来てきた、メタ認知を怠らないで来た方達と違って道があったときの準備が達成されてない、自己確立がこれまでにできなかった。その準備は、それまでのその時を生きてきたなかでよく見聞きし考えていたか、いないでぐさぐさ進んできたかの違い。いいと思っていたたものを自分のダメさがよぎり全て消そうとするか、自分があるかの違い。失礼や非常識なことをしてしまうか、全く相手を不愉快にしないのを心得ていて執着なく潔いかいなか。(傍から見れば、中は分からない、分からないということはどちらもありうるということだ、それを自ら剥いでしまったら可能性は失われる。待てなかった、相手からの接触を。自らの醜態を晒す、この上ない近眼自己愛の暴挙。可能性を信じ待ってくれていた相手に対する軽率すぎる侮辱行為。もういけない。)
そして、常識を周りに迫られたときの客観的な正当性で決められてしまえば違う。
視力がわるいのに眼鏡もコンタクトもしなかったこと、しないで生活をしたこと。これは、当然他の人間からみて納得される理由はなく、もし言おうものなら言い訳に直行する。主観的な選択が他者の納得を得られるほどの理由として認められるだけの実感はありようもない。
眼鏡に遠近レンズの機能つけないでもあるとお店の人は言ったが、黒板とノートの位置で目と目頭の感覚が狂う。感触も伝達も視界の空気が鈍る。黒板が見えるような度の強いものを選んでいいとして、それで手元にするとき一々外さないとならない。でも最近は外すこともなくなった。眼鏡を着けていようがいまいが睨んで敵意あると受け取られてしまう。視力が落ちると輪郭が失われて、境界が無くなる。白紙も近づいてみれば何かしら書いてある。遠くの方で手を振られても、のっぺらぼう。
もう、対関でどうしていけばわからない。ただ、目の前のことは出来る。しかし、目の前のことに集中して動けない。ブレインフォグ。それでも身体を動かして気分転換出来る。ドニー・イェン。それでも短い、横たわってしまう。まだ死にきれないのに生きれない、死ねないのは生きてないから。膨張と収縮に捕らわれる。午前過ぎ、午後来て、夜なり、寝る。善意に気付かず善意に死ぬ。人が当たり前に求められる常識、失礼のなさ、不愉快のなさは幼い時から熟成される。ただそれが駄目になると、デフレスパイラルにはまる。(限りなく自分の行為を変になってしまうくらいなら一旦マントででも隠して抑えて周りにしてもらえたことから導き出せていけるだろうか。中身が見えない間はあらゆる可能性を内包できるということ。しかし、その内包した問題は自己のみが観測者である。)中々、脱することはできないもがくほどできない、同属のようで異種の彼らには悟りがある。自分自身は執着と他者を目の前にしたときの改善すなわち回避から未だ抜け出せない。ベリッシモを望む泥舟。ああレオナルド。彼等と違う自分が自分に厳しくない、理路整然と責めようと気持ち(私情)との分離をしない、地に足着いていない生活にふさわしい自身を認められない、それでも進めばただ自滅するだけ。
信号待ち、向こう側にいる見知らぬお姉さんが横を通り過ぎるときに言われた 「変わりな」。
でっかい豆鉄砲