年をとったら、文体にも年とらせますか?
今日は本誌6号の準備をしていました。デザインが入り始めたので、原寸サイズに出力して貼り合わせ、束(モックアップ)をつくります。ページをパラパラとめくっていくと、始まりましたなぁという気持ちになります。
でもここからが、なかなか進まないんですよね。なんかこうしっくりこない。書きたいことも、書くべきこともたくさんあるはずなのに、出てこなかったり。頭のなかで情報整理ができてなかったり。
という”ナカミ”の問題もさることながら、”カタチ”の問題。文章のテンションとスタイルを忘れてしまっていました。残念です。
前号の5号を作ってから、まる1年も間が空いてしまったため、どんな文体だったかを本誌を読み返して思い出す作業から始めています。
というわけで、「たとえ打順がまわってこなくても、バッターボックスに立つべし!」と自分への戒めもこめ、毎日noteをシコシコ更新しているわけです。
それに加えて、新しい悩みも発生しました。八画文化会館は2011年に創刊したので、当時はまだ29歳でした。30なかばにもなって、20代の頃のテンションで書くとバカみたいです。
しかし編集者の人格・年齢・性別に関わらず、雑誌には雑誌のテンションや文体があります。それがちょっとヤングなんですよね。このまま男子中学生でも喜んで買ってくれるような路線を突っ走るべきかどうか…。
淀川美代子編集長が50代向けにガラッとリニューアルした『ku:nel』みたいに、年齢とともに変える手もあるかな…。ターゲットが変わっているようにも見えるけど、昔から読んでくれてる読者が年を取るから、それに合わせて変えてるんですね、きっと。
一方、『宝島』の前身雑誌『WonderLand』を創刊した津野海太郎は、『歩くひとりもの』というエッセイ集のなかで、こんなことを言っています。
われわれは誰しもすべて、われわれ自身のなかのある部分によって、時間を越えて生きている。たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識していないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ。
年齢を意識していないからこそ、文体も変えづらいような気もするんですよね。意識的に訓練しないと。
文体にはある特定の時代や、場所が入り込んでしまっています。ファッションやブームにも似た、スタイルの問題なので意識的に変えないと変えられない。
悩ましいところですが、ここはひとつ、師である酒井さんを見習おうと思います。酒井さんは、20代で創刊した『愛知県漂流』の頃から『八画文化会館』まで、一貫したノリとテンションを維持しており、熟練や上達よりもイキのよさと勢いを重視するポリシー。40代半ばに突入した現在もまったくブレることなく「青春とバカ」を体現した文体に、磨きをかけているようです。
みなさんは何か発表するときや、SNSで発信するときの文体って、実年齢とともに年を取らせますか?それともずっと、ある年齢のまま年を取らせませんか?