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カシオペヤ

「星を見に行こう」
いつも通りのある日のこと君は突然立ち上がり言った、わけではない。奥多摩に星を見に行ったのである。長年生きていて、こんなロマンチックなデートに誘われたのは初めてだった。
誘ってくれたのはK君という8歳年下の男の子だ。彼と初めてセックスした時、お互いの友人を含めた4Pだった。彼は私に挿入する友人の尻を叩いて邪魔をし、男同士でイチャイチャしていた。この子は素質があるなと思った。3人以上のセックスでは、同性同士のコミュニケーションが何より重要なのだ。何の素質だったのかは未だによくわからない。
彼が結婚してからしばらくの間疎遠になったが、数年前に離婚したと連絡があり、再び会うようになった。一緒に沼津の近くまでさわやかハンバーグを食べに行ったり、富士急ハイランドで遊んだり、河口湖でフェリーに乗ったりと、車で出かけることが多かった。昔は騒がしい子だったのに、しばらく会わない間に寡黙で物腰柔らかないい男になっていた。きっと私の知らないところでいろんな苦労をしたのだろう。初めて会ってから7年。お互いに年をとった。

会社帰りに待ち合わせ場所へ向かい、彼が運転する車に乗り込んだ。外苑から首都高に入り、中央自動車道を西に進む。目指すは、奥多摩湖の星空スポットだ。気恥ずかしくて必要以上に話しかけたが、そのうち私も流れる景色をぼんやり眺めるだけになった。ラジオ番組のパーソナリティが「わたしにとってのSDGs」みたいな話をしている。
八王子で高速を降りて、地元の中華チェーン店で夕飯を食べた。以前ドライブした時にも寄ったお店で、店内の汚さも味の雑さも最高なのだ。真っ赤な下地に白い文字でデカデカと店名が書かれた看板を見て「品がない!」と笑い合った。仕事帰りの運転手や家族連れで溢れ、店内は騒がしいのに妙に居心地がいい。餃子の予想外の大きさに苦戦していると、K君に「今日の昼、桃食べた?」と聞かれた。もちろん食べていない。何故そう思ったのか聞くと、
「セーターの首元がピンク色になってるから」
と言っていた。見ると、首まわりにマフラーの綿毛がついている。首元がピンク色になっている服を見て、桃を食べた後なのかもしれないと思う感性、なんなんだ。追いかけてくる鬼に桃をぶつける昔話があったよねと、どうでもいい話をした。

八王子からさらに北西を目指す。民家と街灯が減り、暗い坂道が続くようになった。さらに進むと古いトンネルと急カーブが増えていく。山道の崖側は墨で塗りつぶされたかのように一面真っ暗で不気味だった。カーブを曲がり切れずにガードレールを越え、あの闇の中へ真っ逆さまに落ちていく様を想像し鳥肌が立った。K君は「こえー!」と怯えながら慎重に運転し、助手席に座っているだけの私もずっと緊張していた。どこまで走っても逃げられない深い闇が、人間にはどうすることもできない力をあることを仄めかす。自然への畏怖が信仰に繋がるのも頷ける。
あまりにも怖いので、80年~90年代の明るく軽薄な邦楽を流して気分を無理矢理盛り上げた。K君は平成生まれのくせに重度の昭和オタクで、私でも知らないようなマイナーなポップスにも反応する。「この曲、Babeじゃない?」と言われた時は笑ってしまった。なんで知ってんだ。ホラー映画の序盤で殺されるカップルたちも、きっとこんな風に怯えたりはしゃいだりしながら人里離れた館にたどり着くのだろう。

出発から約2時間。カーナビの目的地に設定していた駐車場は工事中だった。
端に車を停めることはできたが、工事灯の明かりで夜空の半分が薄くなっていた。実はこんな光量の中で工事が行われていたのかと驚かされる。普段は全く気が付かなかった。
せっかくここまで来たのだから、満天の星空を見たい。再び車に乗り込み、奥多摩湖の畔をさらに奥へ進んだ。暗すぎて見過ごしてしまいそうな駐車場を見つけ、車を停める。ドアを開けた瞬間、「うわ」と声を上げた。
ひとつひとつの星の光がクリアで、期待していたよりもずっと綺麗だった。黒い画用紙に白いインクの飛沫が無数に飛び散り、その一つ一つがランダムに輝く。アルフェラッツ、シェアト、マルカブ、アルゲニブから成る秋の四辺形もくっきり見えていたに違いない。しかし、星に関して何も予習してこなかったので、オリオン座とカシオペヤ座以外の星座を見つけることができなかった。星座早見盤を持ってくればよかったと後悔した(後で調べたら、今はアプリで星座を探せるようだ)。K君は、さっそく流れ星を見つけていた。
星座は全く詳しくないが、カシオペヤ座は好きだ。自惚れが原因で海の神ポセイドンの怒りを買ったカッシイオペアは、椅子に縛り付けられたまま星座になり、北極星の周りを回っている。北半球から見えるカシオペヤ座は、地平線に沈むことがない。彼女は、休むことすら許されず永遠に罪を償い続けているのだという。私が落ちる地獄はきっとこういう類のものだろうと、カッシイオペアに勝手に親近感を抱いている。
星の名前がわからなくても、飽きることなく空を眺め続けた。首が痛くなってきたので車に戻ると、K君がハンドルにもたれかかって東の空を眺めていた。彼とはボーッとする時間を共有できるので何時間でも一緒にいられる。何億年も前からずっとそこにあるものを、どの時代の人たちも同じように眺め続けてきたのだと思うと不思議だった。K君が用意してくれたホッカイロが、ポケットの中をじんわり温めている。来てよかったと思った。
さらに湖の西を進み、橋を渡った先にある小さな駐車場でも星空を眺めた。さっきの駐車場では天体観測に来た人たちの談笑する声が聞こえたが、ここは人の気配が全くなかった。K君は、駐車場からつながる湖畔の歩道をグングン進んでいく。iPhoneで足元を照らしながら階段を恐る恐る下りると、いつのまにかK君の影が見えなくなっていた。名前を呼んでも、山と湖の黒に声が吸収されてしまう。このまま自分自身も夜に取り込まれてしまう気がして、心細かった。
いつのまにかすぐ近くまで戻って来ていたK君の影が、ふいに手を伸ばした。ホッとして顔をあげると、そこにいたのは知らない男性だった。
ふわふわの髪、黒縁の眼鏡、ゴツゴツした手、まつげが長くて笑うと黒目がちになる目。K君と全部同じなのに、別人に見える。私は今までずっとこの若く美しい男性と一緒にいたのかと我に返り、急に怖くなった。K君によく似た男は、躊躇する私の手を優しく包み込んだ。

急カーブだらけの道を引き返し、山を下りる。道路が広くなり、街灯が増えると「家がある!」「夜なのに明るい!」と大喜びした。
青梅のホテルで彼とたくさんセックスをして、朝を迎えた。目が覚めた時、自分がどこにいるのかわからなくてしばらく混乱した。ソファで水を飲んで一息つき、ぐっすり眠るK君を眺める。慣れない山道を長時間運転し、疲れていたのだろう。昨晩「あなたはずっと気持ちよくて最高だ」と、うめくように囁いていたことをなんとなく思い出す。嬉しさと恥ずかしさで、静まったはずの体の芯が再び熱を持ち始める。ベッドに戻り、寝ているK君を起こしてまた抱き合った。
彼の髪を撫でながら、K君にもある日突然私を別人のように感じる時が来るだろうと思った。今まで自分はこんなおばさんを抱いていたのかと我に返る時が。それはそう遠くない未来のはずだ。

ホテルを出ると、外は嘘みたいに快晴だった。昨晩の不安を洗い落とすように、眩しい陽の光を全身に浴びた。帰りのドライブ中は2人とも終始ご機嫌で、カーステレオから流れる古い洋楽に合わせて歌った。真っ青な空の下、温かな日差しを浴びながら車は東へ走り続けた。
自宅近くのコンビニまで送ってもらい、K君にお礼を言って「また遊びに行こう」と約束をした。本当は、もっと伝えたいことがあった。帰り際はいつも口下手になる。
家に帰ると、夫が台所で焼きそばを作っていた。奥多摩の感想を言いながら一緒にお昼ご飯を食べ、午後からの仕事の準備をした。同じ場所をぐるぐる回る日々がまた始まる。

「誘ってくれてありがとう。追いかけてくる鬼に桃をぶつけたのは、イザナギノミコトだって」
K君に送ったLINEは何日経っても既読にならなかった。
都心の夜空は、深夜でも薄ら明るい。未来永劫休みなく夜空を回り続ける罪人の姿は見えなかった。


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