看護師として生きてきて②~ちょっと話が反れます~
毎日バタバタと、手続きやなんやで忙しくしております。(創業の進捗経過はまた後日)
私が何故看護師になったのか、看護師歴について話そうと思います。
小学校から共働きだった家はでは私が夕食の準備をすることが多々ありました。私が作ったご飯を家族が喜ぶので、嬉しくなってやっていたと思います。小学校の卒業文集では「料理教室の先生になりたい」中学校の進路相談では家政科を志望していました。勉強をやってこなかった私は成績は下位の方、公立高校への進学は難しいだろうと、担任、親が思っていました。
そこで、沸いて出た話が看護師でした。衛生看護科の推薦入試が受けれそうというのです。そこから担任&両親対わたしの攻防が始まりました。
親の説得はこうです。
「料理は、大人になってからでも出来る。お金がないとお店も開けない。看護師になれば何処でも、何があっても一人でも生きていける」なんかそんな事を話してきてました。そこに折れて、看護師の道に進みました。進学した私は、中学校は公立校の中でも一番の偏差値、ヤンキーの居ない優秀な学校でしたから、色んな学校から集まる高校は色んな同級生が居ることを知りました。中学で下位だった成績も、勝手に上位になっていて、勉強しようって気にもなり、成績は常に上位でした。不思議と看護師の勉強も苦ではなく、人体の仕組みや看護を教わることは楽しかったと記憶しています。親の強制で進んだ看護師の道が意外と、合ったのです。
看護師になる上で必須なのが実習です。
実習記録を夜中まで書いて、早朝に起き病院実習へ。実習は定められた時間があるので、休んだり出来ません。今は学生さんに優しく、ですが昔は鬼のようなスタッフに怒鳴られ、指導という名の個室への呼び出し、エレベーターは使わず何階でも歩いて、誰より早く掛け上り、朝と帰りははスタッフ全員の前で、計画発表や反省を言わなければならない、、、など、特別な時間が流れます。その中で実際の入院患者さんとの交流や看護体験は、毎日一喜一憂で、今思えば充実していたのかもしれません。
そうこうしてるうちに高校も終わり、看護学校への進学の時期になりました。親が言ってた、「何処でも働ける」が頭をよぎり、福岡を飛び出して京都に進学しました。これなら、文句も言わせまいと、学費の安い看護学校に推薦入試で入ることが出来ました。
高校で准看護師の資格をとっていた私は、
クリニックや病院のバイトで稼いで、週末は大阪や神戸に遊びに行きまくり、勉強はせず、成績はそこそこ良いという、充実した毎日を送っていました。
まだ、看護師を真面目にやるとどういうことか、大変さを知らない時代の話です。
続きはまた後程
2020年コロナ禍に開業した看護師です。ワクワクが止まりません。Withコロナはまだ続きますが、継続していけますように応援お待ちしております。