INTPが考える感情と論理の比率について


はじめに

INTPと聞いて、どのような印象を抱く人が多いだろうか。
IQが高い、オタク率高め、学者気質など、いろいろな印象を抱く方がいるだろうが、中でも「論理的」という言葉を思い浮かべる方が多いのではないだろうか。

何せ、16パーソナリティ診断では「論理」学者と名付けられているくらいである。心理機能で見てみても、第一機能は「Ti:内向思考」で、第四機能(劣等機能)が「Fe:外向感情」だ。程度の差こそあれ、感情論がいまいち伝わりにくい人が多いタイプではあるだろう。

かく言う私も自認はINTPなのだが、周りからは「論理的」と言われることが大半である(少なくとも感情的と言われるのは皆無だ)。
大学院時代に相談しに行ったカウンセラーには、「相談内容がきわめて論理的」と言われたし、友達にも上司にも「論理学者ね、なるほどね~」と言われたし、推しているアイドルにも2人連続で「論理的な人のイメージ」と言われる状態である。

このように、周りからはどうやら「論理学者に偽りなし!」みたいに見えているらしいのだが、当の私は「いや、感情も絶対大事だよなあ」と思っている。実際、16パーソナリティ診断をやるといつも、他は20/80くらい極端に出るのに、F/Tだけは50/50に近い数値である。

もちろん、人間たるもの、思考と感情は二項対立ではなく連続的な概念であり、「F型だから感情論者」「T型だから理屈っぽくて感情はない」ということはあり得ない。せいぜい、「どちらの考え方がより得意か」「表出しやすいか」くらいのものである。
しかしながら、私の周りからの印象は「論理的」に偏っており、自認とかなり離れている部分がある。

そこで、このような周囲の評価と自認の乖離はどんなところから生じるのか、この記事を通じて考察したい。自分語りのような内容で、読んでくださる方には恐縮だが、少しでも意味のある記事になれば幸いである。

理由1:感情を論理の一部としてあらかじめ組み込んでいる

先にも述べた通り、感情と論理は決して二項対立的なものではなく、人間の意思決定や思考に対する連続的な要素である。だから、感情が論理の一部にあるということは、基本的に当然のことである。

しかしながら、ここで言う感情と論理は少々性質が異なる。例えば、風邪を引いた人に「風邪を治すために薬のもう、病院行こう」と即方法論で解決を促すだけでなく、「薬飲んだ方が絶対にいいけど、そもそも本人の辛い気持ちはあるし、薬飲む前に本人の気持ちも聞いたうえで解決しよう」というように、感情をも解決の方法論に内包している。

読者の中には「いやそらそうでしょ」となる人もいるかもしれないが、私の知り合いのENTP(INTPと同じでTi、Neユーザー)の人は、話すと大体方法論の話になる(余談だが、この方の方法論はすごく面白い。さすがNeユーザー)ので、人の感情・論理に寄らない意志を、自分の論理にデフォルトで組み込んでいるのは、案外F寄りになっている要因だと考えている。

理由2.人間社会で孤立しないためのライフハック

理由1のように「感情をデフォルトで論理に組み込む」ようになった要因だと思うのだが、私は、物心ついたころから「人の気持ちを考えなければ」という思考がかなり強かったように思う。
なぜ「人の気持ちを考えなければ」と考えるようになったのだろうか?
これに関して思うのは、「このままでは人とうまく関われずに孤立する」と子どもながらに強い自覚をしたということである。

INTPは第四機能が「Fe:外向感情」であり、正直周囲の人にただただ共感したり、周囲の人と調和したりすることが苦手な部類である。ところが、学校というのは隙あらば「人の気持ちを大切にしましょう」と教育する場所である。真面目な児童・生徒ほどこれを真に受けて、正論で泣かしてしまえば「人の気持ちを考えようよ!」と発言するし、クラスで「多数が賛成しているが論理的には最適解ではない」意見に決まりそうなときに「いや違うやろ」と発言したら、「空気よんでよ…」となって、場合によっては即四面楚歌状態になってもおかしくない。

私の時代は「KY」という言葉が流行った時代である。きわめて個人的な感想だが、子どもながらに「KY」という言葉はとても怖かった。だから、周囲の人の気持ちを徹底的に考え、可能な限り傾聴し、共感して調和するようにした。

とはいえ、劣等機能の「Fe」を簡単に使えるようになるわけではないので、おそらく第二機能の「Ne:外向直観」をフル活用して周囲の人の気持ちを「読み取る」ようにしたと思う。この気持ちを「読み取る」ことが常態化した結果、読み取った「人の気持ち」を前提に論理を構築するようになったと考えられる。

割と「他人軸」的な話になってしまってはいるが、感情というのは「Fe」劣なりのライフハックではあると思うのだ。

理由3.そもそもINFPだった

ここまで「Ti」だの「Fe」だのと、幼少期からINTPであることを前提に考察を進めてきたが、そもそも自分の「Ti」が後天的なもので、それまで「Fi」で生きてきた可能性も十分にあると思っている。
というのも、私は論理を大学院時代に「就活」に出会うことで初めて自覚したように思うからである。

振り返ると、学部時代までは、「意識して」何かを論理的に考える機会が少なかったように思う。たとえ周囲からは「論理的である」とみられていても、当の本人は全く「論理的」とは思っていなかった。むしろ、やりたいことを思うがままにやるような感じで、論理が支離滅裂になっていたことも少なくないんじゃないかと思う。

これが急激に変わり、自らの論理性を強く意識するようになったのが「就活」である。世間的には「自己分析」と呼ばれる過程が就活には必ず存在するが、私はいわゆる自己分析が一切肌に合わなかったので、あまりうまくいかなかった。ただそんな状況でも、就活では自らの志望動機などを可能な限り論理的に言わなければならない。こうしたことから、必要に駆られて後天的に「論理」を身に着け、結果的にTの要素が強まった可能性がある。

就活を経た今の価値観では、論理から逃げることはできないのでINTPだとは思うが、そもそもはINFPなのだとしたら、感情を重視するのもうなずけるところである。
今はINTPと自認しているから、自らの思考をこうして分析するし、その要因を、子どもの頃から「INTP」だった自分に求めたりもするが、案外元々Fの気質もあるのだろう。

やはり、感情と論理は切り離すことができない。それが元々の気質なのだとしたら、なおさらである。

おわりに

ここまで、「INTP自認のわりに、Fっぽい自分の元」について考察してきた。
おそらく今の自分は、自認以上に周囲から「論理的」と言われている以上、F/Tで言えば「T」で生きている人間であると思う。ただ、周囲からいくら論理的に見られようと、感情を可能な限り大切なものと捉え、重要視しているのも確かである。

自分の思考は、考えれば考えるほどによくわからないが、感情論も別に嫌いではないので、これはこれでいいかという感覚である。

ちなみに最後に一言いうと、私はおそらく真の意味での「共感」は苦手である。やはり「Fe」劣のINTP…?

長文となってしまったが、ここまで読んでくださったことに心より感謝いたします。

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