なんにでも意味はありまーす【こころのままに、とりとめもなく(2)】
「すべてのことには意味があります」
どこかで聞いたことはありませんか。
わたしは、こどものころから、あまり考えることをしてきませんでした。だから、聞いたところで「ふーん」と右から左。
ただ、最近になって読書していたりなんかするときに、こういった内容の文章に出くわしては、少し立ち止まるようになってきました。人生の折り返しをもう迎えているであろういまごろになって、もっといろいろと考えて生きなきゃいけないと思いはじめたのです。そこで、いまさら感はありますが「なんにでも意味があるのか」について考えてみました。
結論、なんにでも意味はあります。事実、STAP細胞よりあります。
はい、終了。解散ー‼︎ とはいきませんので、もうしばらくお付き合いください。
最近、こっそりと入ったライター業界には、わたしとは異次元レベルの職人ライターさんがいます。比べることすら、おこがましいレベル。ルフィとチョッパーの懸賞金くらいの差は、余裕であるでしょう。(「ワンピース」をご存知ない方、申し訳ありません。月とスッポン。雲泥の差があると受け取ってください。)
そのなかには「なぜこの文を書いたのか、一言一句に理由があり、答えられる」という高スキルの先輩もいらっしゃいます。
おちょくるような思いではなく、真剣に尊敬の念をおぼえ、おなじ世界に踏み入っていいのかと不安になるほどの格の違いを感じています。
わたしはどうか?申し訳ないですが、そこまで深く考えられていません。「必要だと思ったから」とか、「流れ的に」とか、あいまいなことしか答えられないでしょう。
でも、この「なんとなく」ってヤツも、ほんとはなんでもいいわけじゃなかったりしますよね。
例えば、「晩ごはん何がいい?」に対する「なんでもいい」
これって、考えるのがめんどうだったり、想定外のものは出されないだろうと高をくくっていたりするから出てくる言葉ですよね。
毎日、献立を考えて作っている側からすると、特別手のこんだ料理や高級な食材をつかうものでなければ、なにか1つでいいから答えてほしいヤツです。ここ大事です。
そして、なんとなく選んで買ったと思っている服や物もそうでしょう。
きらいな色や形、素材のものは避けているはずです。特に「これ!」といって選んだものでなくても、ほかを選ばなかった理由があるはず。
深く考えたり、気づいたりしていないだけで、自分の好みや大切にしている考えとか、自分軸みたいなフィルターに1回通しているんだと思います。
ただ、この「なんとなく」をいちいち言語化するのはたいへんだし、めんどうですよね。言葉にしようと考えすぎると時間がかかり、思考の鮮度が落ち、想いの熱も下がっていきます。
ひとに伝えたい想いや、書く仕事でなければ、ふだんは感覚的でいいんでしょう。ただ、いざというときのため、言語化できる力をつけることは大切だと思います。考え、アウトプットするトレーニング。
そして、そのトレーニングこそ、わたしがnoteを書く意味のような気がします。いままでやってこなかった、自分の気持ちに向き合う時間。もっと自分の想いを大切にしていかなくちゃいけないと。
さて、多くの方は、もうご存じだと思いますけど、なんにでも意味はありまーす。