高校生の就職慣行とアンコンシャス・バイアス

 社説で指摘されているような就職慣行は、高校生に安定した就職を保証し、地元企業にも安定的に労働力を提供するという重要な役割を果たしてきたことは事実である。しかし、裏を返せば高卒者を「労働者」「労働力」としかとらえてこなかったことを意味する。

 マス(かたまり)として見るなら、それは合理的だったかもしれない。しかし時代は変わってきている。

 世界を見渡すと、ITやソフトの分野では10代の若者が固定観念にとらわれず、柔軟な発想力で時代の先端に立って活躍する姿がある。もしかすると、自由な発想力や独創性を最大限に発揮させるには、大学に行くより頭が柔らかいうちに直接ビジネスの世界へ飛び込んだほうがよいかもしれない。そこで壁にぶつかったり、つぎのステップに移るときに必要と感じたりしたら、そのときに大学の門をたたけばよい。

 もう一つは、「統計的差別」の問題である。人間をその属性によってマスとしてとらえる考え方は、個人の多様性を軽視するものであり、たとえ統計的に合理性な根拠があるにしても許されない。それが現代の常識、スタンダードである。

 高卒を大卒とは異なる就職慣行のもとで「労働者」「労働力」としてとらえることの背景には、高卒に対するいわゆる「アンコンシャス・バイアス」(無意識の偏見)が見え隠れする。素の能力と可能性は高卒が大卒に劣るとは限らず、彼らの将来に天井をつくってはいけない。

 好都合だからとか、現状に合っているからという理由で続いてきた慣行を見直すべき時期にきている。

#COMEMO #NIKKEI

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ohtahajime
「個人」の視点から組織、社会などについて感じたことを記しています。