「がんばる」ことの評価、もう一つの罪
数年前に『がんばると迷惑な人』という毒づいたタイトルの本を出した。そこで強調したかったのは、がんばることが努力の「質」を犠牲にしてしまうリスクである。
しかし最近、ときどき人事評価に携わっていて(具体的には言えないが)、ちょっとだけ違う角度からその弊害を実感することがある。
それは能力のある人、(よい意味で)要領のよい人は仕事をスムーズにこなすので「がんばり」を示す機会がないということだ。逆に能力が不足している人、人間関係で摩擦を起こす人、要領の悪い人ほどがんばる必要に迫られるので評価されやすい。そして、評価されるといつまでも欠点や悪弊は改善されない。
これは例外的ではなく、一般的どころか定理といってもよい。にもかかわらず、たいていの組織では努力が評価項目に含まれている。
職場だけではない。たとえば中学や高校の内申書では必ず、どれだけがんばったか、努力したかが強調されるし、レポートや卒論なども努力の跡があることが評価される。
「がんばり」重視の弊害については、いつも指摘しているので、あらためて述べる必要もないだろう。「我武者羅」とか「遮二無二」といった言葉は、マイナス評価を表すリストに入れるべきだと強く思う。
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