異邦人になる │ カテゴリー化と赦し
外国で生活をしてみると、日本にいた頃とは違った点が気になります。
日本だとスムーズにいくことが、外国だとスムーズにいきません。
外国の言葉ができないと馬鹿にされたりもします。
でも外国人として生きることで、少し生きづらさがなくなったような気がします。
移民としてみなされる
私はフランスの首都に住んでいます。
ここでは、仕事を求めて、多くの移民が住んでいます。
肌の色は異なり、文化や宗教も異なります。
文化的背景が違う人が多く住んでいるので、肌の色や見た目で人を判断しないことが礼儀となっています。
そのため、どんな見た目の人でもフランス語で話かけます。
もちろん、観光地のど真ん中にいけば、英語で話しかけられることもありますが、日常生活を送る場所、スーパー、パン屋、美容院など、フランス語でコミュニケーションが始まります。
移民というカテゴリー
あなたはアジア人系のフランス人とみなされるか、移民1世のアジア人とみなされます。
よくも悪くもアジア人というカテゴリー、移民というカテゴリーからは抜け出すことができません。
滞在許可証が必要な場合は、警察庁で移民としてカテゴリーづけられるでしょう。
仲が深まれば、あなたをアジア人ではなく、日本人としてみなす人がでてくるでしょう。
カテゴリー化の優しさ
カテゴリー化はときには暴力的ではありますが、私はそこに、優しさも見出すことができます。
たとえば、私個人を見るのではなく、日本人としての私と接する人がいます。
その人は私個人に興味があるというよりか、日本人である私に興味があるのです。
なかには、そのことに幻滅や憤慨する人がいます。
私にとっては、それはなんだか優しさというか、その人の「プラスの面」や「メリット」を見る態度が好きです。
私個人にフォーカスされるよりも私のカテゴリーにフォーカスされる方が少しばかりいい距離感で心地よいです。
異邦人とは?
生きづらさがあるあなたも同じように考えるのではないでしょうか。
世界から漠然とした疎外感がある。
その疎外感を埋めるものは何もないことを知っている。
でもカテゴリーを通して見られることで、あなたはなにからも疎外されていないことをわかります。
また異邦人は、自分たちのルールを知らないアウトサイダーをみなされがちです。
あなたは移民だから、ルールを知らなくても当然だよね。
そういった、移民に対する「あたりまえの基準」を下げる眼差しがあります。
それは人によっては馬鹿にしていると捉える人もいます。
でも私にとって、その眼差しは、規範から少し外れていても仕方がないという、何らかの赦しに思えるのです。