「区別」と「差別」の授業の思い出話
まれに、小中学校で受けた授業の中に強烈に記憶に残っている話がある。その一つが、「区別」と「差別」の授業だ。小学校高学年か、中学の、道徳か、社会の時間に絵カードに書かれたさまざまな事柄について、「区別」か「差別」か、を考えディスカッションする授業だった。
絵カードの内容は
「男と女」 といったものから
「車いすのAさんは電車に1人で乗らない」
「車いすのAさんは電車に1人で乗れない」などといった、障害者のある人の社会参画に関するものがあった。
あった、というより、正確には、20項目はあったであろう絵カードのうち、そこのところだけが記憶に残っている。
その授業でディスカッションした内容としては、
「車いすのAさんが電車に1人で乗れない」のが、車いすを持ち上げてくれる駅員さんがいないからだったら 差別 だ。
とか、
Aさんが乗りたいって言ってるのに乗れなかったら「差別」だけど、乗りたいかどうか分からないから、それは差別ではない
とか意見があったことを覚えている。
クラスのまとめとしては、
「男と女」は、全員の一致(班ごとで相談してから全体に発表だったので、班内で説得された人はいた気がする)で、区別 ということになった。
「車いすのAさんは電車に1人で乗らない」は、全員一致の 区別 となり、
「車いすのAさんは電車に1人で乗れない」については、差別:区別が6:4くらいに分かれていたと思う。いつもの感じで多数決的に 差別 が優勢となり、先生も
「1人で乗れないのは 差別 ということですね」とまとめていたように思う。
実のところ、私は 区別派 だった。
そして、私がこの「差別」「区別」にしっくりこないままに授業は終わった。
長年疑問に思っていたのだが、近年では、障害者の差別解消に関わる法律などができて、だんだん差別であるという意味が納得できるようになってきた。そして、こうして文書にしながら考えてみると、やはり 差別 であるという気がしてくる。
改めて今の考え方を言葉にすると、やはり最初のディスカッションの意見でも出ていたように、
「1人で乗りたい」という気持ちや希望があるかによると思う。差別 や 区別 というものを分けるのではなくて、相手の気持ちを考えたり、思いやりを持つという方が近いと思うし、差別解消法というのも、結局はお互いを理解しましょう、ということに尽きるのではないかと思った。