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『十文字美信 ☓ 伊藤俊治 クロストーク 静寂を叩くー日本の美と場を巡って』拝聴

楽しみにしていたこちらのイベントへ。

『十文字美信 ☓ 伊藤俊治 クロストーク 静寂を叩くー日本の美と場を巡って』

道中に読み出した本(ボードレール語録)の序章で、ベンヤミンの「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」「技術的複製可能性時代の芸術作品」等の内容について触れている。

この中で、「アウラ」という言葉が一つのキーワードになっている。「アウラ」とは「本物の芸術作品にはあるが、その複製にはない何か」。また、「意味のある過去、経験として蓄積された過去が前提となって生ずるもの」とされている。
(※ただし、ベンヤミンの記す、「アウラ」とは、その著述の中で、少しずつ視点が変わっているらしい。)

ベンヤミンは、その時代において、経験の凋落に伴う「アウラ」の衰退を危惧していた。近代になって、人間の外的な関心事が、経験と同化する機会が減少してきたこと。
特に、当時は、新聞の普及がそれに寄与していたと言っている。大衆の多くが、新聞を見れば、そこに書いてあることを経験したと思い込んでしまうことの危うさや、様々な事件が起きても、それを情報として消費することだけに長けてしまい、真の経験との向き合い方を忘れてしまうこと。
また、産業における生産過程への流れ作業の導入に伴い、技術を習熟することが無意味となり、
経験を重ねて技術を身につける機会が無くなってきていることなど。
経験が凋落してしまうことで、「アウラ」それ自体が衰退すること、そして、本物の芸術作品の在り方が、変容してしまうことを危惧していたのだろう。

ベンヤミンが活躍した当時は、新聞がメディアの中心にある時代。その時代から現在に至るまで、様々なメディアが台頭し、好むと好まざると様々な方法で情報を提供してくれている。
また、産業においても、高度な機械化やコンピュータ、AIなどによる制御など、経験を経て技術を身につけるような業務は、間違いなく、日々減少している。

本物の写真作品とは何なのか。
経験することがない私たちは、本物の写真に相対した時、そのアウラをしっかりと受け止められるのか・・・。
この件は、写真にも影響・関係しているかもしれないと邪推しながらトークイベントへ。

クロストークでは、今回の展示に至るまでの経緯や、応挙たちへの想い、過去の作品や著述などの視点、作品制作の姿勢など、貴重な話を伺った。

機会を見て、改めて伺ってみたい話が幾つかある。応挙の評価、「静寂を叩く」という言葉、目が見えない時に見えたもの、見ようとする時に見えるもの、”みえないもの”を写真にすること・・・等々。

その中で、静寂を叩くというタイトルに辿り着くまでの話は興味深かった。写真家とは何者なのかということの一つのヒントになるのかもしれない。
先生の写真展に伺うと、毎回、胸が空くような気持ちになる。私と妻、二人で毎回感じる感覚だ。
例えば、今回の写真展の前に、写真集を何度も見ているけれども、都度、大乗寺十三室を拝見した感覚になる。
それは、見ているものに没入する感覚とも違う気がする。

ちなみに、先生のその他の作品についても、風景であれば、そこにいてその様子を見ているし、物であれば、目の前で、その物を見ている。また、ポートレートであれば、その人の呼吸が感じられるような感覚になる。
そこにある写真は、絵葉書的ではないし、図鑑的ではないし、証明写真でもない。
もちろん、スナップ写真であっても、決まった形に収まった退屈な写真とは訳が違う。
写真を見ているはずなのに、被写体と何某かの関係性を持たせてくれるとでも表現すればいいのか。写真という静止画として固着させられたイメージに、何故か心を動かされる。あたかも、その場にいるかのように心を動かされる。
物言わぬ写真を”叩き”、見る人の心を動かす、そんな写真が制作できる写真家はそうはいない。

SNSの時代。写真とは何なのか。
明確な定義をする必要はないのかもしれないし、そこを巡って肩肘張っても仕方ない気がする。
もちろん存在自体に耐えられないような代物もあるかもしれない。
それでも、どれもまた、写真なのだと思う。
少なくとも、自分は自分なりの、しっかりとした写真作品を作りたい。

大判に出力された応挙の猿たちは、インスタレーションを眺める私たちを眺めながらどんなことを思っているのだろう。
本物の芸術作品とは何か、考えたい方は是非!

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空想の宙「静寂を叩く」 大乗寺十三室|十文字美信

2024年8月27日(火)~10月20日(日)

火~土 11:00 ~ 19:00 
日・祝 11:00 ~ 18:00 
※毎週月曜休(月曜日が祝祭日にあたる場合も休館)入場無料

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