「坂の上の春」その5(最終回)
あと一息だ。少女は思った。
坂は漸く終わりかけていた。今まできつかった傾斜がだんだん緩くなり、それとともに目の前に少しずつ、見たこともない景色が見え始めていた。
「春だ。」
思わず少女は叫んだ。
坂の向こうから光が射し始めた。
その光の中から、ずっと会いたかった母親と、その側に佇む父親の姿が見えてきた。
「お母さん!お父さん!」
少女は大声で呼びかけた。
「待っていたよ。」
父親が優しく答えた。
「さあ、帰りましょう。」
母親が手を差し伸べてきた。
「もう少し春さんと一緒にいようよ。」
少女はだだをこねた。
「勿論よ。これからはずっと、一緒に春の中にいるのよ。」
「お家には帰らないの?」
今まで登ってきた坂の方を振り返りながら、少女は不思議そうに訪ねた。
「この坂はね、一度登ったら二度と降りられないの。だからもう、お家には帰れないのよ。」
「そうなの?」
言われたことの意味が分からずに、少女はぽかんとして言った。
「そうなんだ。ごめん、俺、ちゃんと思いを伝えられなくてさ。」
何処かから声がした。
声の方を振り返ると、そこには栗原君がいた。
「栗原君。」
「俺、ずっと待ってたんだ、この坂の上で。」
「そうだったんだ。ごめんね、私、勇気がなくて、いつも坂の途中で引き返していたの。」
「なんだ、そうだったのか。俺、てっきりふられたかと思ってさ。もしかして、俺にはこの坂の上の春が似合わないのかも、と思っちゃって。」
「ごめんね。待たせちゃって。」
「俺の方こそ、ずっと待っていられなくてごめん。もし待ってたら、もっと早く会えたのにな。」
「いろいろ話したいことがあるんだよ。栗原君とは。」
「俺もだ。でも、もう焦ることはない。俺達、こうしてここでちゃんと出会えたんだから。」
「でも、私家に帰らなきゃ。」
「その必要はないんだ。あいつは僕達がいなくてもちゃんと生きていける。もう帰る必要はないんだ。」
別の方向から声がした。
声の方を振り返ると、そこには彼女の夫がいた。
「あなた。」
びっくりして彼女は夫の側へ駆け寄った。
「どうしてここに?」
「ここには、春があるからさ。」
ああ、そういうことか、と彼女は思った。
「あいつに子供が生まれたそうだな。いつかあいつも家族を連れて、この坂の上の景色を見に来るときが来るさ。」
「ここに春があるからね。」
彼女は言った。
そして、彼女は目を瞑った。
甘い花のにおい。
桜の花びらの感触。
吹き渡る柔らかい風。
今、自分は春の中にいる。漸く坂の上に辿り着いたんだ。
「さあ、行きましょう。」
母親の声が聞こえた。
彼女は、とびきり素敵な笑顔で頷いた。
通行人の119番で救急車がやってきたときには、彼女は坂の途中で倒れて、事切れていた。
彼女は担架に乗せられ、救急車の中に入っていった。
彼女を乗せた救急車は、彼女が倒れていた坂の途中から引き返し、サイレンを鳴らしながら坂を下っていった。
病院に来た特別養護老人ホームの職員は、彼女は老人性認知症で、徘徊癖があった、と機械的な口調で語った。
口癖は、「あの坂を登りたい」だったという。
息子は彼女の亡骸を引き取りにも来なかった。
施設を勝手に抜け出して徘徊した末に、心不全で死亡。
これが、世間的に見た彼女の死の記述である。
でも、本当は違う。
彼女はただ、坂の上の春を見に出かけただけだったのだ。
長い間ずっと、愛する人と見たいと思っていた、あの坂の上の春を見に。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?