サルトルの哲学とミクロ経済学
高校生時代の3年間、私は、サルトルを熱心に読んだ。クリーム色でソフトな表紙の、人文書院のサルトル全集の感触が懐かしい。当時、世界と人生を考えるための理論が欲しいと思った。この年代によくある月並みな動機である。サルトルを選んだのは、無神論と実存主義の組み合わせが気に入ったからだ。
当時は1970年代なので、世界の思想界でのサルトルの評判は既に低落していたが、気にしなかった。構造主義にはまだ気がついていない。代わりにミシェル・フーコーでも読んでいたら、時流に乗った大学生になれたのかも知れないが、これもたいした問題ではない。
サルトルの哲学は私にとって大変具合が良かったのだ。ヤマザキ少年が理解したサルトルの実存主義は、以下のようなものだ。私は、当時より賢くなったりしてはいないので、今の理解とも大きなちがいはない。
① 「実存は本質に先立つ」という有名な言葉の通り、人間は、まず世界の中に「ある」のだが、その本質が前もって他者によって規定されているのではなくて、自分自身の「自由」が行う選択によって、刻々と自己を規定し、自分を作って行くような存在なのである。
② 人は、過去や出自などに関係なく、今これから、なりたいと思うものになることを選ぶことが出来る。上手く行くか否かはともかくとして、何でも選ぶ「自由」が人間にはある。
③ 選択には結果が伴う。そして、その選択は他人が与えたのではなく、自分の「自由」によるものなので、その結果の全責任は自分にある。加えて、人の選択は、状況を通じて、世界と、他の人々とつながっているから、大げさに言うと人は全人類に対して選択の責任を負っている。
④ 人の選択は、その人の行動によってのみ表れる。選択するとは、世界の中で行動することだ。「行動に表れなかった本来の自分」のようなものは存在しない。
⑤ 人は常に選択の「賭け」を行わねばならず、「選択しない」つもりの選択も一種の選択であり、選択から逃れることは出来ない。これを、「人は自由の刑に処せられている」とサルトルは表現した。
⑥ サルトルは「アンガージュマン」(契約、社会参加、などという意味)という言葉を独特に使って、人が時々の状況に応じて社会に関わることを重視した。但し、人と人の相互作用やその結果の社会の動きなどを十分に分析したとは思えない(ヤマザキ少年はこの点に少々不足を感じていた)。
⑦ 自由、責任、アンガージュマン、などを通して「実存主義の倫理学」が可能だとされ、著作も予告されていたが、サルトルは生前にこの約束を果たすことがなかった。
さて、数年前にふと気がついたのだが、上記のようなサルトル理解は、ミクロ経済学の基礎と奇妙なくらい一致する。上記の番号を参照して、説明する。
先ず、人は自分の価値尺度を自由に決める(①)。これは、各人それぞれに効用関数があると仮定して、その内容を各人に任せる経済学の世界と同じ枠組みだ。
過去に囚われずに意思決定を行うのは、「サンクコスト(埋没費用)」の無視だ(②)。経済的意思決定にあっては大いに推奨される原則だ。
サルトルの責任論は、金融の世界でよく登場する「自己責任原則」そのものだ(③)。意思決定で損をしても、自分の責任なのだ。結果をごまかさずにありのままに受け入れる姿勢は、金融の世界なら「時価評価」を避けないことにも一致する。
表れた行動から価値尺度が推定できるとすることは、サミュエルソンの「リヴィールド・プレファランス(顕示選好)」の理論と言っていることが同じだ(④)。特に何かが変わるような実用性のある理論ではないが、こう言っておくと理論の基礎がしっかりした印象になって格好がいい。
人間は刻々と賭けを行う存在だ。サルトル語では「自らを投企する」。経済学用語に翻訳すると、意思決定にあって「機会費用」との勝ち負けが常に付随するということを意味する(⑤)。何も選んでいないつもりでも、経過した時間に対応する機会費用は生じているし、社会に対しては何らかの態度で参加したことになっている。この点の意識化は、意思決定にとって実践的なアドバイスである。人生相談などにも役に立つ。
異なる主体間の相互作用があり、このことに意識的でなければならないと強調することは、「一般均衡理論」を金看板と掲げる経済学の世界に似ている(⑥)。そして、全体を視野に入れた分析が意気込みほどに実用的でない点までが、よく似ている。サルトルは多くの時事問題に首を突っ込んだが、議論の印象は部分均衡分析的を大雑把に拡げたようなものが多かった。
倫理も扱える枠組みなのだと胸を張りながら、実のところ倫理の分析に熱心でない点もサルトルとミクロ経済学はよく似ている(⑦)。但し、これは、少々残念な一致だ。実存主義にも経済学にも、この分野ではもう一頑張りして欲しい。
この話は機会を改めて書いてみたいと思っているが、知識、思想、スキルのようなものの「身につき具合」は、10代までとそれ以降とでは格段の差がある。先の「(山崎式)サルトル実存主義」の考え方は、私に深く染みこんだ。
その後の人生で大きなメリットだったのは、「機会費用」、「サンクコスト」に対する正しい思考と行動が「自然に」できたことだった。お金の運用をはじめとしてビジネスや金融の意思決定のミスは、行動経済学がよく取り上げる錯覚やおっちょこちょいのようなレベルの問題を除くと、機会費用或いはサンクコストを正しく見つけられなかったり、処理できなかったりすることから起こる場合が多い。これは驚くほどに多い。仕事上、これらの発見と処理が出来て直ぐに正解が分かり、直ちに行動や指摘に移せることの効果は大きかった。どんどん敵が増えたが、自分が正しいことに自信があるので全く気にならない。同僚や先輩たちが「ネクタイを締めたのろま」にしか見えないような一時代があった。但し、それで大いに儲かったのでもないし、出世にも無縁だった。
自己責任の自覚さえあれば自由を行使していいのだという思想は、働き方や人間関係などに反映した。過去のあれこれは「サンクコスト」なので、私は現在と将来にしか関心を持たない。失言、喧嘩、浮気、失敗など、色々なことがあっても後を引かない。よく言えばサッパリした性格だし、悪く言うと過去に対して無責任だ。「過去を都合良く忘れている」と非難されることはあるが、忘れていると言うよりは、価値観上の関心が全くないというだけのことだ。「変えられないこと」に関心を持っても無益だから意思決定上は正しい。その代わり、現在と将来に対しては情熱的に取り組む方だと思う。
サルトル式の「アンガージュマン」の精神は、広く外向けに自分の意見を届けたいという、自分のモットーの一部に現在も活きている。私は自分なりの仕方で世の中の状況に関わっているつもりだ。しかし、これまで政治的な活動には一切向かわなかった。もろもろの「機会費用」と活動の効果を考えた時に、政治は自分が関わるにはあまりにも馬鹿馬鹿しく思えた。サルトルには、状況に対して無責任だと叱られるかもしれない。
総括するに、私のこれまでの人生のスタイルは、自分流のサルトル解釈によって作られていた。「自由」が大切だった。
近年、読み返すことは殆どないが、サルトルの書いたものや発言を振り返ると、その堂々たる尊大ぶりに驚く。自分が知識人であるという認識を何の遠慮も謙虚さもなく無く表に出すし、論争スタイルは不必要なまでに攻撃的だ。
分野はちがうが、高校生時代に著作を読んで大いに影響を受けた経済学者がミルトン・フリードマンだった。この人も「自由」の重要性を強調する。だが、サルトルとフリードマンは、それぞれ哲学と経済学において、「20世紀の態度がでかい人ランキング」のおそらく横綱クラスだろう。
私は「偉そうに、攻撃的に話し、書く」ことの影響を両人から受けたかも知れない。文章や口調を真似た相手はこれらの二人ではないのだが、10代の頃に熱心に読んで感化されたので、影響されたにちがいない。過去に、私に関わった人に、なにがしか迷惑を掛けたかも知れない。
「サンクコストだ」と思って水に流して下さると幸いだ。