10代の頃、私を作った3冊の本
先日、音楽家の坂本龍一さんが亡くなった時に、彼に関連する記事を何本か読んだ。心に引っ掛かった一節が見つかったのは、娘さんでミュージシャンの坂本美雨さんへの朝日新聞のインタビュー記事だった。美雨さんが、若い頃に「一流」を求める父に反発を感じたことがあったというエピソードの中のものだ。親子のやり取りは大半がメールだったという。
美雨さんが言う、
「同じころにもう一通。『僕が今、つくっているものの98%は、10代で吸収したもので成り立っている』と。彼には、私が大事な時期を有意義に使っていないように見えて、不満だったのでしょう。すごく焦りました。私の10代って、あと1年しかない。なんで今言うの!」。
(朝日新聞「【アーカイブ】(おやじのせなか)坂本美雨さん 『一流目指せ』に反発も」。朝日新聞デジタル2023年4月2日。【2008年6月1日朝刊34面】の記事との注釈がある)
「今、つくっているものの98%は、10代で吸収したもので成り立っている」というフレーズは、10代末期の娘には強烈だが、なるほどと思った。
10代で吸収した知識と、20歳以後に獲得した知識では、道具化・肉体化の程度とでもいうべきものが全く異なる。体系的に音楽を学んだはずの「世界のサカモト」とは比較にならないが、私の場合も、10代で身につけた思考の型の影響が圧倒的だ。その後に20代以降に身につけて自分を喰わせてくれた知識・スキルの体系は別にあるのだが、こちらはあくまでも「知識」にとどまる。
本稿では、10代の頃の私の思考の型を作った3冊の本をご紹介する。幸い、何れも現在入手可能でよく読まれている普通の本だ。
1.「実存主義とは何か」
ジャン・ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院
サルトルが自らの思想を分かりやすく語った講演が採録されている。同じサルトルの本なら、初期の哲学的主著である「存在と無」を挙げる方が格好がいいかも知れないが、見栄を張るのは止めておく。今の私には無益だ。
実は「資本論」はよく読めていなくて、「共産党宣言」に感化されただけの昔の左翼革命家のような感じで恥ずかしいが、まあ、いいだろう。一つの思想を広めるに当たって、分かりやすく書かれたパンフレット的な書籍は重要だ。
noteの別の記事に書いたが、少年時代の私は、サルトルの思想を都合良く取り込んだ。①人間は過去の如何に関わらず将来を選択して自分を作って行く存在であること(「サンクコスト」の無視)、②人間は選択を逃れることが出来ず無選択や態度保留も選択の一種であること(「機会費用」の重視)、さらに、③人間は結果に対して自分で責任を取るなら、何をするのも自由であること(「選択の自由」)などを、自分の思想的な基礎として決めつつ、全ての問題を整理して即座に決断できる思考習慣を「何よりも自由を重視する」という価値観と共に得た。
物事に対する決断が早くなり、迷いがなくなった。そして、「自分が選んでもいい」と思う自由の範囲を普通の人よりも広く考えられるようになった。
私にとって、結果的に、サルトルは極上の実用書になった。
2.「資本主義と自由」
ミルトン・フリードマン著、熊谷尚夫、西山千明、白井孝昌 共訳、
マグロウヒル好学社。
(現在は、日経BPクラシックスの一冊として村井章子訳で出版されている)
受験を直前に控えた高校3年生の正月に札幌市内の本屋で見つけて読んだ。「よし、経済学部に行くことにするか」と決めてくれた本でもある。フリードマンが前年にノーベル経済学賞を受賞していたことから、書棚の目立つ場所に置いてあった。
前提条件として、高3の夏休みに当時の大学の経済学の定番の教科書である「サムエルソンの経済学」を既に読んでいたことが、少々重要である。受験科目の社会科の一科目として「政治経済」を選んだので、経済の知識を強化する積もりで大学の教科書を先読みしたのだった。サムエルソンとフリードマンの主張はしばしば対立していて、「ノーベル賞受賞者同士の意見がこんなに違うのだから、経済学は面白そうだ」と興味を惹かれた。
「資本主義と自由」は、自由と市場メカニズムを重視したアイデアの宝庫であり、後年、経済評論を書くようになってからも使えるネタが詰まっていた。近年、通俗的には「フリードマン=新自由主義者=弱者を斬り捨てる悪い奴」という見方をされることが少なくないのだが、しっかり読むと、「負の所得税」といった、ベーシック・インカムとほぼ同等の効果をもたらす政策が提案されていて、自由主義的な経済思想が決して経済的弱者を斬り捨てようとするものでないことが分かる。
尚、現在の日本経済は、新自由主義とは全く異なる、独自に奇妙なシステム(日本的縁故主義とブラック資本主義の二層構造)で出来ていて、「新自由主義」という言葉で日本経済を語ろうとする人の脳ミソは話にならないくらい雑に出来ている。注意しておくといい。
さて、当時の「サムエルソン+フリードマン」の知識を持って予定通りに経済学部に行った私はどうなったか。
経済学部の講義の幾つかは面白かったが(特に根岸隆教授の講義が好きだった。「屈折需要曲線」のアイデアに感心した覚えがある)、思考の方法まで変えるような内容には殆ど行き当たらなかった。
同級生との横比較で考えるとして、大学の入学時点で、十分に卒業できる「学力」を備えていたと思う。
余裕のある経済学部生としては、その先の経済学に興味を持って、経済学研究者への道を歩む選択肢があったかも知れないのだが、「研究者」という職業の仲間内で閉じた世界を想像して、はっきりとこれを止めることにしたのが、大学3年生の初期だった。経済「学」へのマイブームは、この時点で終了した。
後から思うにその後の2年間で得たものもあったのだが、卒業を待つ2年間が無駄に長く感じられた。「早くリアルな経済に参加したい」と思っていた。
ただ、当時の「サムエルソン+フリードマン」の「使える知識と思考の型」は、就職後の商社マン時代にも、金融マン時代にも、さらに後の経済評論家としての仕事にも大いに役に立った。
「資本主義」と自由は、私にとって、長らく実用書であると同時に、仕事にヒントを与えてくれる第一級のネタ本でもあった。
3.「読書について」
ショウペンハウエル著、斎藤忍随訳、岩波文庫
哲学者には、著作自体を読み物としても読ませる名文家の系譜と、読み物としては退屈でしばしば難解な名文家ではない(悪文家とまで言い切る自信はない)の系譜があるように思う。プラトンやショウペンハウエル、時代が下ってギルバート・ライルなどは名文家だと思うが、アリストテレス、カント、ヘーゲルなどの文章は読み進めるのに覚悟がいる。例えば、カントは概ね読みにくいが、よく読むと「なるほど、分かった」と思う内容がふと浮かび上がってきたりするので厄介な人である。
この点、ショウペンハウエルは読み物として読んで文句なく楽しい。
「読書について」は、既に哲学的主著(「意志と表象としての世界」)を書き終えたと自信満々のショウペンハウエルが、主著の補足的を意識しつつ書いた夥しい数のエッセイ的小品の中から、「思索」、「著作と文体」、「読書について」の3編を選び出したまとめた、小さな本だ。
自分の頭で考えた思想と、多くの書き手による十分に思考されていない内容との価値の差、匿名批評がいかに卑怯で無価値か、明瞭でない文章や文法的に誤った文章への批判、さらに、読書は他人の頭で考えることであり、自分の頭の中で考えた内容にこそ価値があるという読書観、など分野の近い複数のテーマが取り上げられている。
何れも、論旨そのものの納得感もさることながら、批判対象に対する、辛辣さ、比喩などを含めた「悪口の呼吸」が素晴らしい。
かつてのショウペンハウエルは、内外の文学、哲学、芸術に通暁し、イタリア語やフランス語も深く理解している当代第一級の教養人なので、彼の口調を私のような凡俗がそのまま真似ることは難しいのだが、「ショウペンハウエルのような悪口を書けたら楽しかろう」ということが、その後の人生の目標の一つになった。
何となく元気が出ない時に、手に取ってどの箇所でもいいので読み直してみると元気が出るタイプの有り難い本だ。私にとっては、言わば、「読む向精神薬」である。
そうだ、思い出した。ショウペンハウエルのような文章を書きたかったのだ!