ガウディと、からだの曲線
「人間は創造しない。人間は発見し、その発見から出発する」
建築界の巨匠、アントニ・ガウディのことばです。
先日私は、東京国立近代美術館へ「ガウディとサグラダ・ファミリア展」を観に行ってきました。
ガウディの創作に触れ、展覧会をまわって気づいたことについて、書いてみたいと思います。
ガウディは何を見ていたのか?
展覧会をまわり、私はとにかくサグラダ・ファミリアの美しさに目を丸くしました。
私、建築物が好きです。
日本的な建築も、都会の高層ビルも、人間がつくった「巣」
人間が生きる場としての建築が私は好きなんです。
ガウディの建築って、曲線があったり、捻れていたり、近代建築の「まっすぐ」な感じがないのですよね。
見ていて「自然」を感じる。
ガウディは、自然の観察から、様々な建築技法を発見し、自然の中からあの立体構造物をつくったのだと教えてもらいました。
私たちが当たり前に見る「木」から、大きな法則性を発見したり、洞窟や、大きな岩からも、建築技法を発見していったのです。
逆さ吊り実験
ガウディが行った「逆さ吊り実験」というものがあって、一本の鎖を、左右の両端を固定して吊すと、放物線を、描いて垂れ下がります。
逆さ吊りにして、たわんだ線から、立体構造物の自然な曲線を導き出し、建築に取り入れていたことを知りました。
計算ではなく、自然から学んでいたのですね…
自然を、自分の創作に取り入れる方法論を知りました。
世界に存在する当たり前を、自分のものにしたのですね。
人のからだも、重力の影響を受けている
私、ガウディの展覧会をまわっていて、逆さ吊り実験の模型を見て、展示の見方が一瞬にして変わったんです。
ガウディの創作物だけではなく、たくさんの来場者を見て、「人のからだも、重力による影響で、放物線を描いているんだ!」と思ったんです。
今まで、人のからだを診てきたのですが、人の輪郭線を、構造物としてあまり診てこなかったように思い、反省したんです…
私、人の内側を流れる「気」にばかり目を留めて、外の状態を診ることをおざなりにしていたなぁと…
反省して、もう一度、ガウディの建築を一から見直したんです…
直立二足歩行
人は、生まれる前から重力の影響を受けていて、重力に負けると、立体構造物としてのからだが崩れ、不調を形成したりします。
人間は、直立二足歩行をするので、基本的には、頭のてっぺんから、踵まで、縦のラインで重力を受けます。
重力を受けるために、「動的な縦のライン」が形成され、縦の構造を支えるために骨格が形成され、骨格とともに、筋肉、血管、神経を形成し、重力が人間の動きを決定づけていると言っても過言ではないです。
重力と仲が悪くなると、杖をつかなくてはいけなくなったり、寝たきりになったり…
人間が生きる上でも、施術においても、重力との関わりを考えなくては、木をみて、森をみないようなものなのではないでしょうか…
人の輪郭線も、逆さ吊りから生まれているはず
以前、何かの本を読んで、倒立にこったことがあるんです。
両方の腕を後頭部で組み、肘を床につけて頭を床につけ、できるだけ反動をつけずに倒立する訓練をしたことがあります。
ちょうどあれが、私にとっての逆さ吊り実験だったのかもしれません…
頭を床につけて倒立すると、伸びた脚が釣り合う位置があって、からだだけでなく、こころも「静止」する瞬間があるんです。
なんというか、とても気持ちいい、しっくりとくる感覚が、穏やかにからだに訪れるんです。
逆立ちを行っていると、直立二足歩行をしているときよりも、いろいろなことに気づきます。
左右のからだの重さの違いや、背骨周囲の滞りが際立って、「今」の自分の状態が顕在化してくる…
背骨が硬いと、脚を反動をつけて振り上げないといけないし、バランスも取りにくい…
立つときよりも自分に意識を集注させるからこそ、からだが「ある」ということを感じやすくなる印象があります。
立つということに存在する逆さ吊り要素
立つということによって、お尻や、二の腕、おっぱいも垂れ下がるようになるし、人のからだの「輪郭線」は、重力によって大きく変化するのだと思います。
立体構造物の崩れがあったり、長期間の気の滞りによって、内側に気がめぐらない状態が続くと、皮膚は垂れ下がり、緩み、たるんでくる。放物線はとがってくる。
短期的な滞りだと、表面、筋肉、皮下組織は硬くなり、放物線もなだらかになるはず。
施術は、基本的に「寝て受ける」
でもですね、施術って、基本的には寝て受けるんです。
それはなぜか?と聞かれると、施術の多くは「背骨」を整えることが大切なんです。
東洋医学では、五臓六腑は対応する背骨から、実がなるようにして繋がっていると考えていて、五臓六腑に不調和が起こると、背骨周囲に反応が出ると考えているんです。
触ったときの左右差や、起伏の違いを診たり、上と下の力の入り具合、硬さの違いを確認することが多いのです。
人間のからだは、立って重力を受けると、背骨周囲に存在する「抗重力筋」という、重力に拮抗してからだを支える筋肉があるため、立った状態だと、からだを調節しにくいんです。
だからこそ施術は、「寝て受けること」が基本になるのです。
もっと、逆さ吊りされたからだを診てみたい
今まで、施術をする前に、からだを立った状態で動かしてもらうことはあっても、重力をかけた状態でからだの左右差を診ることって、なかったように思うんです。
動きだけではなく、構造物としてのからだを、逆さ吊りされた構造として、注意深く観察してみたいという衝動にかられています…
ガウディの展覧会の途中から、どうも人のからだを診たいという衝動が強くなって、実は、あまり「ガウディとサグラダ・ファミリア展」に集注できませんでした…
発見したことがあると、すぐに確認したくなる…
いてもたっても、いられなくなってくる…
ガウディから、問いをもらった気がしたんです。
サグラダ・ファミリアの映像作品を観て
途中、大きなスクリーンがあって、座る場所があって、NHKが撮った、サグラダ・ファミリアの映像があったんです。
ドローンを使って外を撮っていたり、中でミサ?をする映像があったり、あまりの美しさに、ことばを失って、長らく座って、映像を見ていました。
映像とともに流れていた、haruka nakamuraさんの『CURTAIN CALL』という曲がめちゃくちゃよかった…
この文章も、『CURTAIN CALL』を聴きながら書いています。
女性の透き通るような声と、しっとりとするピアノの音色が、天使が空を舞っている様子を彷彿とさせる。バイオリンの音色が、空から筋になって降り注ぐ。
泣きそうになりながら、映像を見ている私がいました。
途中に出てきた、朴訥した、金色のキリストの巨像があって、すごく心を惹かれました。
あぁ、なんて素晴らしいんだ。
ガウディという人に触れる
たくさんの学びがあったのですが、発見しただけではなく、発見から出発せよと、ガウディに言われました。
ガウディは、キリストのように断食を行い、「生きるために食べるのであり、食べるために生きるのではない」と弟子たちに言ったそうです。
やせ細ったガウディを眼に思い描き、自分の理想を形にする作業は、修行のようなものだったはず。
ガウディのつくったものだけではなく、私はガウディがどんな人だったのかを知りたかった。
ガウディが直筆した、小さな「ガウディノート」や、細かな絵が描かれた名刺が、私にとって、ガウディその人を知る、大きなきっかけになりました。
本物と複製品
最近の展示って、複製品が多いです。
画も、直筆ではなく、複製であることが多くなった昨今、本物から得られる情報って、レプリカとはまったく違いますね。
技術は進歩しているかもしれないけれど、それでも私は、本物を見たい。
展覧会にある展示は、きっと、誰かが必死になって交渉して、やっと、あの場所に、空から、もしくは海から運ばれてきたものもあるんですよね…
今まで、ただ展示を見ていたように思うのですが、今回私は、どのような経緯でここに、このものがあるのか?複製品があるのか?なんとなくですが、空気感がわかったんです。
願って叶ったもの、願っても叶わなかったものが、時に目に見える形で、時に目には見えなくても感じる状態で存在していました。
あるものも、ないものも、まるでオーケストラのように、私の内側には響いてきたんです。
人間は発見し、その発見から出発する
生きるってことは、たくさんの発見があるということ。
私たちには、神のような創造はできないのかもしれない。
けれど、日常の中から、非日常の内から、自然のなかから発見し、そこから出発することができる。
ガウディの建築は、時を越えて今も、たくさんの、たくさんの人を集めている。
人が集まるのには、見えない理由があるのですね。
目には見えないもの、ことを、私たちは感じる能力を持っている。
すべてを使って、先人たちの発見を糧にして、前に進みたい。