小説指南抄(22)シリーズ物語について考えた
シリーズ物語について考えた
(2004年 03月 04日 「読書記録゛(どくしょきろぐ)」掲載)
小説にせよマンガにせよ映画にせよゲームにせよ、量産型エンターテイメントの物語にはファンのはまりやすい「シリーズ物語」というフィクションの形式がある。
作者にしてみれば、登場人物が走り出してしまえば、もう何かに憑かれたように書いていける場合もある。
大まかには次の二つの要素で成り立つと思われる。
●舞台となる世界観を共通とする物語
テレビゲームのRPGや、ファンタジー小説でおなじみの形式だ。最近では「十二国記」(小野不由美)が読み応えがあってよかったな。
考えてみれば、RPGゲームをプレイするということは、プレイヤーがその世界で、一定の約束事の中で自分の物語を作ることである。プレイヤーの数だけ物語があるわけだ。
●舞台は違えど登場人物の物語を固定してしまう物語
極端な表現だが、これの代表は、007シリーズだろうか。
「世界征服をたくらむ悪の組織」に「潜入・捜査」して「一度は捕らえられ」、「美しい敵側の女を籠絡」して「脱出」、「戦力を整えて」「反撃」という構図は見事なまでに守られている。
映画「私を愛したスパイ」が、過去のシリーズの中で最も人気のあったシーンを集めてきて脚本を上げたというエピソードが、その証拠といえようか。
また、寅さんシリーズもそうだよね。
現実に市場に出回っているシリーズ物は、以上の二要素の組み合わせである。
真にオリジナリティーのあるシリーズを作りたければ、上記の二要素を根底から覆すような話を考えればいいわけだが、でもそれが面白いかどうかは保証の限りではない。
いわゆる、シリーズのファンにとっての「気持ちよさ」は失われてしまいそうだからだ。
(2023/08/10 追記)
この記事は、エンターテイメントの量産型物語について語っている。そうじゃない作品もいくらでもあるわけだ。その典型が登場人物たちの生涯や、成長を追って語られる成長物語(ビルドゥングスロマン)などだ。