創作エッセイ(87)書き上げてこその気づき

 私はアマゾンKindleによる電子書籍で作品を発表しているインディペンデント作家である。公募に応募したり、雑誌に投稿したりしながら53歳まで会社員として生きてきた。その後、様々な職を転々としながら、やはり小説を書いてきた。ついに商業作家に成れないまま還暦を過ぎてきたわけだ。


小説を書くことが面白い

 62歳の時に最後の仕事(ホテルのフロント業)を辞めて、小説を書くことに専念することにした。そこまで小説に拘るのは何故か? 面白いからである。
 文学作品の場合、小説を書くこと、作品化することで、脳内のモヤモヤとした気持ちや、抱えてる問題が可視化される。エンタメ作品の場合は、書こうとする物語を作る上で、そこに内在しているテーマが浮かび上がる。これが面白い。また、執筆という作業自体の面白さもある。これは、面白い話を人に話すときの面白さに通じている。

作品を書ききることで得られた気づき

 会社員という本業を持っていたため、私の作品数は少ない。それでも各作品を書きながら感じたこと気づいたことがある。そのあたり振り返ってみよう。

「殺戮の夜、流血の朝」
 これは、大学四年の1月から書き始めた作品で、新入社員時の5月に書き上げた。それまでマンガで物語を作っていた自分が、初めて書いた小説で、一人称「俺」のハードボイルド作品だ。大藪春彦やドン・ペンドルトンをお手本にありがちなストーリーをなぞってみたもの。運良く双葉社の編集Y氏から、「一人称は実は難しい。まず三人称で書きなさい」というアドバイスをもらえた。
(気づき)
・小説が書けた。俺はマンガより小説の人だった。

「ハードロックの夜」
 これは第二作で、小説推理新人賞の一次予選通過止まり。やっぱり一人称。若干、少年愛的な要素を盛り込んだけど、冒険はその程度。
「シンデレラの夜」
 これは第三作。書き上げたけど発表していない作品。やっぱり一人称。このあたりから自分のこじれた内面を引きずったハードボイルドに嫌気を感じる
(気づき)
本当に自分が書きたい作品なのかを自問した

「天使の肖像」(未発表)
 これは第九回「ドラマ」新人賞に応募してやはり一次予選通過止まり。破滅型青春アウトローもの(苦笑) 勢いで書いてみた。映画ファンで倉本聡さんや山田太一さんのファンでもあったし。
(気づき)
シナリオと小説の違いを意識できた。
 ここまでは自分の中でも習作と言う位置づけで、電子書籍にもしていない。

「薔薇の刺青(タトゥー)」(加筆修正したものをAmazon Kindleで販売中)
 この第四作は、広告会社に転職後、実際に名古屋の夜の街で見聞きしたことをネタにした。フィリピンからの出稼ぎ女性達を食い物にする界隈を描いている。第十回小説CLUB新人賞のやっぱり一次通過止まり。もう俺、二次以上には行けないのかなあとため息つき始める。この時期、創作仲間のO君の作品が、小説宝石新人賞の最終候補三作の中に残って、大いに焦ったのだった。
(気づき)
・社会問題に直面して、それをエンタメ作品に入れること、同時代性などを初めて意識した。
「第七の封印」(未発表)
 初めて書いた400枚を超える長編。当時流行してた「魔獣狩り」とか「魔界都市新宿」などに影響された伝奇アクション。ムーのコンテストに落ちたというか、大幅に枚数超過してたから無視された。群像劇にチャレンジしてみた。
(気づき)
・俺は長編小説を書ける。そして群像劇もやってみたら出来た。
エピソードの順番、読者への情報提示のタイミングなどを意識した。

「沈黙の島」(未発表)
 その同じ第三回ムー・ミステリ大賞・小説部門で最終候補に残る。日本を舞台にしたクトゥルフもの。インスマス系。出てくる神社が堕御能(ダゴノ)神社だし。
(気づき)
史実と虚構のブレンドの面白さに気づいた。
例)留学中の南方熊楠が大英博物館で見つけた明代の漢書「死霊大全」はアブドゥル・アルハザードの「ネクロノミコン」の漢訳本だった、とか。(実在の熊楠と、嘘っぱちのブレンド)

「探偵・隆 濡れた調査簿 聖女の苦悩」(「1988獣の歌」収録)
 月刊「官能小説」(東京三世社)に採用された作品で、初めてお金になった。乳飲み子を抱えて苦しかった日々の産物。官能小説だけどハードボイルド探偵ものとしても読めるものを目指した。
・官能小説はプロの書く作品だと気づいた。あと書いていて意外に楽しい(苦笑)

「神様の立候補」(Amazon Kindleにて配信中)
関西地方の文学賞で落ちた作品のラストにもう一ひねり加えて投稿し、ドラマの原作募集「第二回ビジネス・ストーリー大賞」(テレビ東京)の佳作に入選した作品。賞金がありがたかった。
(気づき)
・同時に受賞された方達の作品をみて「物語には従来の類似作品にはない何らかの新機軸が常に必要なのだ」ということを気づかされた。

「1988獣の歌」(応募時は「心獣の歌」だった。Amazon Kindleにて配信中)
 ホラー小説の公募に送ったもの。全三章構成の短編。ドラマの公募にも入選したことだし、これを最後の官能小説にしようとして書いたもの。
 ハル・クレメントの「二十億の針」を意識して、人の心に寄生する意識だけの謎の獣を想定した。彼は性交時のオーガズム時に相手の心に移動する。相手の意識に取り込まれることを防ぐために、宿主を替えるのだ。この儀式としてのセックスを獣の目線で描く。これが官能部分で、加えて「この獣とは何なのか」がドラマの芯になるSFポルノ小説だ。
(気づき)
・これでも落ちて、公募の厳しさを痛感。その後、映画やマンガで「寄生もの」見るたびに「俺も書いてたよな」と苦笑いしてる。

「自転車の夏」(青空文庫・収録、Kindleでも配信中)
大学時代を振り返って描いた長編青春小説。すばる文学賞で一次予選通過止まりの作品を加筆修正したもので、第五回自分史文学賞の三次審査通過で落ちている。431編の上位21には入れたわけで、少し慰めにはなった。
(気づき)
・何気なく描いていたものが、主人公を暗喩する小道具となって機能していることに気づくなど、技術的な気づきがたくさんあった。すべてのシーンや主人公の心情などが既に出来ていて、書くことに専念できたからこその気づき。また、今読み返すと、全共闘世代の直後のシラケ世代の自己葛藤などがよく描けていて悪くないなと思う。
 唯一の予想外は、タイアップしていた自費出版系の出版社から執拗なセールス攻勢を受けたこと。当時の私は自費出版は敗北だと思っていたので断るのに苦労しました。この心境は公募勢にはわかると思う。

 これ以降、もう執筆に際して「書けるだろうか?」という不安感はなくなった。幸い、90年代後半からインターネットが商用解禁され、私らのようなアマチュアの書き手は一斉にネット上で作品を発表し始めた。さらには、投稿サイトまで生まれ、現在では作家の修業の場になっている。紙の書籍の場合、多様な読者に向けて大量に売れなければならなかった。でも今は、コアな読者に長く支持される作品でも存在意義を示すことが出来るのだ。まことにありがたい時代である。公募で弾かれた作品でも、一定数の読者を獲得でき、ロイヤリティまで獲得できる。電子書籍に救われた私のような書き手、少なくないと思う。

完結させる意義

 以上のように、書き上げた作品毎に、何かしら気づきがある。逆に作品を書き上げていなかったら気づけなかったことだ。
小説やマンガなど創作講座の講師の方々も、「未完の大作より、完結した駄作の方がえらい」とか「駄作を書く勇気を持て」などと言っている。

振り返ると、自分の場合、途中で投げ出した作品は一つもなかった。
プロット段階で捨てた企画はあるが、一旦、本文を書き出した作品は最後まで書き終えている。最後まで書き切ることは重要なのだ。

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