『バック・トゥー・ザ・フューチャー』と『シンドラーのリスト』:アメリカ帝国主義を体現する映像表現(『硫黄島からの手紙』:世界で最も戦争を知らないアメリカの人々②)
アメリカの人々が、いかに戦争について無知であり、それゆえ戦争に関わる映像表現に対して、その表現が観る者に与える痛みに対して、いかに無神経であるかということは、いわゆる戦争映画ではない映画にこそ、よく現れていると、私は考えている。
スティーブン・スピルバーグは、制作者として関わった青春娯楽SF『バック・トゥー・ザ・フューチャー(原題:Back to the Future)』のラストシーンで、主人公の相棒であり、タイムマシンの発明者である博士を、民族衣装を着たアラブ人に殺させている。また、念願のアカデミー賞を受賞した『シンドラーのリスト(原題:Schindler's List)』のラストには、歴史的なユダヤ人虐殺の物語を離れて、わざわざ現在のイスラエルという国、すなわちパレスチナの人々を蹂躙する側に立ったユダヤ人の国家を登場させ、その墓地でユダヤ人たちがシンドラーの墓に献花するシーンを挿入している。
私は、この二つのシーンを観たとき、それぞれの映画の本編全体の評価とはまったく別に、スピルバーグという監督が、いかにアメリカ帝国主義のもつ暴力的かつ抑圧的な側面に対して、無批判で、国際感覚のない、無教養かつ通俗的な、「戦争を知らないアメリカ人」であるか、ということを思い知らされた。
どちらのシーンも、その二つの映画の作品としての成功にとっては、必要のないシーンであある。例えば前者の『バック・トゥー・ザ・フューチャー』の場合、全編を通じて明るく爽やかで夢のあるティーン向けの青春娯楽映画の中に、なぜ敢えてテロリストして民族衣装のアラブ人を登場させなければならないのか?
それはこの映画が公開された当時のアメリカの政府とメディアの態度によって説明できる。この作品が公開された当時のアメリカでは、レーガン大統領による大規模な軍備増強が進行していたが、その口実として、リビアの政治的指導者であるムアンマル・ムハンマド・アル=カッザーフィー大佐が、全米のメディアで「狂犬カダフィ」という蔑称で呼ばれ、アメリカによる征伐が必要とされる、世界最大の極悪人に仕立て上げられていた。
アメリカの政府とメディアがこれほどまでにカダフィ大佐を敵視した真の理由は、このカダフィ大佐が、英米の軍事力によって暴力的に母国を追われ、その領土と政府と市民権と誇りを失ったパレスチナ人たちを公然と支持し、イスラエル軍によるパレスチナ人の軍事的弾圧と、それを軍事的にも経済的にも政治的にも支援し続ける英米同盟によるアラブ支配を、率直に批判する人物だったからである。
現在でもなお、圧倒的な軍事力を有するイスラエルは、無抵抗のパレスチナの人々を、ほとんど一方的に殺し続けている。殺されているパレスチナの人々の中には、もちろん数多くの女性や子どもやお年寄りが含まれている。
スピルバーグは、そうした実情を子ってか知らずか、知らないとすれば犯罪的なほど無邪気に、知っているとすれば明確な悪意をもって、アメリカ帝国主義の権力による「大本営発表」を支持し、侵略する側の視点を、あまりにも露骨で無神経な形で、これらの映画にもちこんでいるのである。
そのシーンがあるということだけで、この映画を観ている中の、どれだけ多くの人々が、一瞬のうちに不快な気分にさせられてしまうのか?アメリカによって、イスラエルによって、これら強国の暴力によって、殺戮され、抑圧され、蹂躙されて続けている人々の痛みを、思わずにはいられないのか?
そうした観客がいるであろうということを想像する感性が、欠如しているのである。だから、私は、スピルバーグの人権感覚を、全く信用していない。子どもたちを巻き込んだ多くの人々に対して、彼の作品が与える影響力を考えると、単に軽蔑するという程度ではない、激しい怒りと憤りを感じる。
続く…。
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