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『オープン・シーズン』、そして『博士の異常な愛情』:アメリカ帝国主義を支える映像表現②(『硫黄島からの手紙』:世界で最も戦争を知らないアメリカの人々③)


 スピルバーグの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』におけるアメリカ帝国主義的な表現と全く同じ役割を果たすような映像表現は、愛くるしい動物たちを主人公にした子ども向けのアニメーションにすら散見される。2006年に公開された『オープン・シーズン(原題:Open Season)』という長編アニメーション映画の場合、人に育てられた熊が森に帰るまでのプロセスを描く物語なのだが、問題はその最大の見せ場にあたる部分である。

 そこでは、野生動物の敵という立場で人間のハンターたちが登場し、動物たちと人間のハンターたちの間で「戦争」が繰り広げられる。その中で、鳥たちを戦闘機に擬して戦わせるシーンや、ガスタンクを原子爆弾に見立てて爆発させるシーンが、パロディとして挿入されている。動物たちは、爆発炎上の光を遮るため、一斉にサングラスをかけて、その眼を保護する。これは明らかに、ロスアラモス国立研究所における原爆実験の模様を再現したものだ。

 マンハッタン計画によって開発された原爆と水爆が、その後、広島と長崎でもたらした人類史上でも最悪の地獄絵図は、この映画の制作者たちの念頭に置かれてはいない。なぜ、子ども向けの、野生動物たちが主役の話に、原爆が登場しなければならないのか?その原爆のキノコ雲の下で、どのような惨劇が、人の姿をとどめない、亡霊のような生き物が、水を求めてさまよい、蛆虫に食われながら死んでいったか…。

 この点については、残念ながら、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情(原題:Dr. Strangelove )』のラスト・シーンについても同じ事が言える。そこでは、原爆投下の直後に発生する大きなキノコ雲が立ち昇る様子が、極めて象徴的な「優雅で美しい」映像として、幾度となく繰り返し流される。

 彼は、この映画の撮影に当たって、ゲーム理論で2005年度のノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングに相談したと言われている。シェリングによる東西冷戦分析は、敵の先制攻撃を抑止するために、自動化された核攻撃システムが有効であるとした。先制攻撃は互いの共倒れになるために、先制攻撃自体が抑制されるというわけである。この「戦争ゲーム」理論が、『博士の異常な愛情』に登場する自動反撃システムの基礎である。

 キューブリックの演出意図がどこにあったのかはともかく、その水爆シーンに、ブラック・ユーモアや風刺として認識できる範囲を超えた「力」があることは否めない。1964年のアカデミー賞で、脚本・監督・主演男優・脚色の四部門で受賞を果たしたこの映画は、アメリカで絶賛され、キューブリックの出世作となった。しかし、日本では人々に全く認められず、その年の年間興行成績ランキングで最下位を記録する。原水爆の悲惨さをその脳裏に焼き付けている日本人にとって、原水爆被害者の視点をもたないアメリカ人のブラック・ユーモアは、たとえ監督がそのシーンに「反戦」の意図を込めていたとしても、単に痛みを感じるだけのシーンとして認識される。

 ケロイドの背中や、黒こげの炭となった遺体、両手の指先から垂れ下がる溶けた皮膚…。そうした地獄の惨状を知ってもなお、このシーンが、このシーンを含むこの映画が、素晴らしく風刺の効いたブラック・ユーモアとして、人々の鑑賞に堪えうるものなのか?それを知ったキューブリックは、それでもなお同じ意図で同じシーンを撮ることができたのか?私には極めて疑問である。

 つまり、アメリカの人々は、戦争による被害、侵略される側の被害、攻撃される側の被害について、あまりにも無知で、想像力が欠如している。だからこそ、こうした無神経なシーンを、繰りかえし繰りかえし、戦争とは何の関係もない子どもたちを対象にした映画にまで登場させ、それについて省みることもないのである。

 それくらいアメリカの人々は、戦争について何も知らない。おそらく、日本のみならず、欧州のほとんどの国、アジアのほとんどの国、アフリカや中東のほとんどの国は、近代以降に、自国が戦場となり、何らかの形で、侵略され、支配され、子どもが、女が、老人が、殺された経験を、共有している。もちろん、それぞれの国の人々の中にも、世代や地域や教養によって、共有されている経験の中身には差があるだろう。しかし、いかに偏差があるにしても、そもそものベースとなる国民的経験が広範に存在する。その事実が、アメリカという国と他の世界中の国々との決定的な違いである。

 世界で最も多くの戦争をしながら、世界で最も戦争を知らない人々の国、アメリカ。そのアメリカの人々が、初めて、侵略される側、敵の存在を、悪魔ではなく、人間だと、自分たちと同じ人間だと、実感として知ることのできる映画であるということが、この映画『硫黄島からの手紙』の、最大の特徴であり、最大の成果であろう。

続く…。

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