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インターネットの海、夏休みの終わり
夏休み最終日、携帯電話を壊してしまった。
海を泳いでいたら、防水なはずのケースから浸水してしまったようだった。
珍しく携帯電話が震えたと思って確認すれば「低電力モードが解除されました」の通知なのがオチで、自撮りなんかもめっきりしなくなった。音楽を聴くばかりで、もはや高機能なiPodである。
とはいえ、日本に生きる現代人として、さすがにであるので、さすがに新しい携帯電話を入手した。
引き継ぎができなかったから、色々なものが消えて、アプリも一から入れ直すことになった。
君とのやりとりの履歴も、全部消えた。
初めて送った謎のスタンプ、ぎこちない敬語、ごめん遅刻する、気をつけて帰ってね、ごめんね、大丈夫?、お誕生日おめでとう、ありがとう、好きだよ、またね、全部、消えた。
・
存在というものはそれを認知する存在によって成立するのだと思っている。
私は私以外が認知するから「居る」し、ノン太は私が撫でるから「居る」。
触れられず見えないものも「在る」と言えるのは、やはり認知が有無を決めるからなのだと思う。季節も思い出も心も、大勢が認知するから「在る」。神も人々が認知するから「居る」。
逆に言えば、認知できないものは「居ない」。私が忘れてしまった会話は少なくとも私の世界には無いし、私が認知していない人間は居ない、死んでいるのと同じだ。
小学生の頃、初めてローマ字を習った次の日、お出かけの車の中から見る風景のあらゆる場所にローマ字が書かれていて、突然世界がローマ字で溢れたことに驚いた。認知することで存在するというのは、そういうことだ。
もしも私がある日突然ローマ字を忘れたら、私の世界からローマ字は消えて、それは認知されないただの景色になる。
あなたは、ローマ字だった。
あなたと出会ってから、世界は突然あなたの欠片で溢れだした。
あなたの好きな色、あなたが好きなアイドル、あなたに似た装いの人、あなたの使う電車、全部があなたに繋がるヒントになった。
けれど私は、携帯電話を水没させた。
とうに更新されなくなったやりとりは消えて、私たちを繋ぐものは気づけばそのほかに何もなかった。
だから、あなたも死んでしまったんだ。
私は死んでほしくなかったけれど、あなたは死んだ。
つまり、あなたにとってもまた、私は死んでいる。
あなたは私がよく飲んでいたジュースを忘れた。
あなたは私がスマホケースに挟んでいたものを忘れた。
あなたは私の口癖を忘れた。
あなたは私とのやりとりを見返すこともなくて、
あなたはあなたが忘れていることすら、忘れた。
あなたという創造主の世界には、私の墓標すらない。
私は死んでしまったから、新しい携帯電話は死装束の色だ。
黒と比べると指紋が目立ちにくくて、これはこれで、いいですね。
本当は水色がよかったけど。
意図せず新しい機種になったから今度は一緒に泳げるかと思ったけど、海水はダメなんだって。
学生最後(のはず)の私の夏休みは携帯電話ショップのややこしい契約と共に終焉を迎えた。
浴衣も着なかったし、全然エモくなかったし、儚くなかったし、夏とか夏休みってってなんか、思っているより概念であって幻想だよね。
それこそ、大勢が認知している夏が夏になってしまっている。
創作物に真夏が多いのって、そういうことだと思う。
まあ、だから、現実なんてこんなもんでしょう。
いい機会だし、このまま海を上がって、noteでも書こうかな。