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九月五日 


でも全然黒が好き。
黒と水色と銀色と灰色と白と、好き。

今日はたくさん歌を歌った。
歌を歌うのは、総評して、楽しい。
なぜだかはわからない。

目の前の具体的なことに焦ることなく迎える九月は四年ぶりかな。
第三者様に迷惑をかけるという心配はないものの、具体的な不安がなかったところでそのスペースには漠然とした不安が我が物顔で居座るだけなので、だからといってあまり安寧というわけではないかもしれません。
むしろ、やっぱり、寂しいというか、空虚、うん、空虚、です。

先日憧れの服飾屋さんの素敵なカチューシャをお迎えすることにしました。受け取りは十一月。
これで一つ、生を引き延ばすポイントがリードです。
ここはあまり読まれる方が少ないと思いますしエゴサの範疇にないと思いますので申し上げると、tanakadaisukeさんの世界が、とてつもなくときめきで、美しくて、重たい。この上品な煌びやかさ相応しい人間になりたいとずっと思ってきたのでした。
最後までいくつかで悩んだけれど、初めてのtanakadaisukeはリボンのカチューシャです。私十一月まで生きるから、似合っているか確認してね。
ポップアップ、すっごく緊張して冷や汗かいてしまった!あのような空間に、私は相応しいと言わんばかりの顔つきで闊歩できる人間になりたいものですね。

日付が回って、エアコンのついていない部屋でぼーっとしながら、膝の瘡蓋を剥がしてしまった。
剥がせる瘡蓋をいつでも探している。
瘡蓋剥がすのってどうしてやめられないんだろうね。

瘡蓋を何度でも剥がして、自らどんどん傷痕を酷くしていくのはもはや私のお家芸なのかもしれません。
側から見たら、進んでちょっとした血を流して感傷に浸っているダルい営みを理由をつけて何度も繰り返し見せつけられているといったところなのでしょうか。

それに対してどのような声が届こうが、届けるまではしなくてもちょっと違うところに置き配されちゃったときくらいの感じで宛名はなくともわかりやすく目の届くところに置かれようが、私の目の届かないところにあろうが、別に、いいかなあという気持ち、というか、正しく表現するならば、三月末くらいにツイートした内容が一番しっくりきます。

私がなるべくこの中身やこの理屈を言葉で正確に誤解なく描写しようとすればするほど、それは長ったらしく難解になっていき、結果、読まれない、伝わらない、という現象が起きます。本末転倒です。結局全部全部端折ったら、愛してるになる、大抵。その後に寿限無くらいの注釈が付くだけ。

刺激的でポップな一言を投じられるのはすごいことだと思います。注目度とかとっかかりやすさは段違いでしょうが、それに伴うリスクも大きいと思うから。

私は、どうして生きていこう。タイムリミットのある中で、私が本当にやりたいこと、なんだろう。

7.8時間歌って、へたすぎて笑いそうになって、けれど以前よりはしがみつけているのが嬉しくて、けれどそれは何にもならなくて、何かにつながるとすれば防音のおうちに引っ越すことくらいです。壁一面の鏡もあれば、尚いいけれど。

歌いたい
演じたい
舞台に立ちたい

理解し難いと思うんだけれど、それが私にとって「普通」であるために必要なことなの。

ところでみなさま「反芻」てやりますか?
物理の方です。一度飲み込んだものをもう一度口腔内に戻して咀嚼し直して嚥下する、あれです。
私、これ、みんながやっていることだと思っていて、最近そうではなくて、知的障害や自閉症スペクトラムに多いということを知りました。
とか、あとは一歳時検診で目が合わないとのことで指導が入ったり。
多分どうしても私って「普通」からは外れていて、けれど「普通」が求められる場面で持ちうる「普通」を出し切ってしまったら、残るのは皆様がご存知のインターネット・アイドルです。

と言いつつ、私ってSNSで観測されるよりも「普通」に見えると思うんですよねえ、どうだろう
笑います、照れます、最近遅刻癖が改善してきました。普通に駅伝中継で泣きます。
「普通」を隠して何かを演じているわけではなくて、というところ、なかなか伝わらないですよね。

難しいなあ、と思いながら今日も生きている。
生きていることは以前よりも当たり前。

今日もインスタグラムのストーリーに一言二言書こうと思ったらなんだか長くなってしまって、場所をここに変えたという次第です。

焦点が合わなくなってきましたので、この辺りでお暇いたします。

おやすみなさい。

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