大学6年生。卒業式の帰りに、借りパクしていた本を高校に返しに行った。


 2019年4月入学。2024年9月卒業。

 医学部でもないのに「大学6年生」の秋、大学を卒業した。

 なんでだろう。
 なんでこうなっちゃったんだろう。

 これ一つという理由は述べられないんだけれど、色んな致命傷と色んな延命措置がなぜか同じ結果を導き出して、私は留年しまくって、そして、卒業した。


 大学の隣にある附属の高校に通っていたから、同じ学校に9年間お世話になったことになる。

 TOだと思う。



 卒業式は10:30から。

 時間がなさすぎて、冷凍ミックスベリーを乗せたヨーグルト(賞味期限が今日までだった!)を残した。

 袴は着なかった。そこまで誇らしげに振る舞える卒業でもない、のと、普通に暑い。

 だから結局スーツだけれど、精一杯私らしく、そして、髪にはポエトリープ解散ライブの一回だけ使ったリボンをつけた。

 あの時は卒業なんて思えなかった。何かを修めたわけでもなく、ただ、抗うこともできず仕方なく終わってしまうのだと思っていた。
(ちゃんと沢山話し合って考えて出した結論です)

 けれど私は紛うことなき「卒業式」にこのリボンを再び選んで、ということは、なんだかあの時のこと、ちゃんと「卒業」にしたかったのかもな。


 慌ただしく着替えて家を出たわけだけれど、色々と端折ると、善行により卒業式に遅刻した。
 (電車にお財布の忘れ物が見つかり、持ち主が降りた駅に覚えがあったのでそこまで戻って届けるなどした)


 おそらく人生で最後の卒業式にまで遅刻するなんて、私はなんて私らしいんだ。

 礼拝堂で行われている何かに途中入場する勇気もなく、1時間後から大教室に移動するらしいタイミングで入り込むことにして、足はある教室に向かう。

 障害など学生生活に困難を抱える学生を支援するシステムが大学にはあって、私はその相談室に週に一回通っていた。

 成績や進路のことは勿論、私は一週間のあらゆること、そして過去のあらゆることを話して、担当の○○さんはそれを細々とメモした。

 彼女は私の幼馴染の名前まで知っている。


 なんだか足が向かなくなってしまった時期もあったけれど、不意に思い出してふらっと訪れて、「あら〜お久しぶり〜」と迎えてもらえる。
 どこかでちゃんと拠り所だったんだと思う。

 最後になる今日も、いつものトーンで迎えてくれた。

 休学とか、時には入院も真剣に勧められたのを思い出す。

 本当に、めちゃくちゃだった時の私は本当に、めちゃくちゃだった。

 15回ある課題提出のうち11回を逃したり、期末考査の時間割を間違えて単位を落としたり。
 大学の最寄駅で動けなくなったり、午前のゼミには行けなかったのに夕方のクリスマスツリー点灯式は見に行ってゼミの先生に見つかったり。
 大学どころかベッドから出ることもできず、水も飲めない時もあった。


 本当に、めちゃくちゃだったな。


 最後に履修した授業は、1コマ6時間。二つ下の学生たちとグループ発表を行い、15回中14回出席。欠席分の補講にも出た。

 かなり、頑張れたのではないだろうか。


 とは言えめちゃくちゃだった時期が帳消しになるわけでもなく、GPA(0〜4で示される成績)は1.53(恐ろしく低い)だし、何より私は大学6年生である。


 代償は、大きかった。



 なんの代償?



 夜眠れないこと、朝起きれないこと、忘れてしまうこと、喋れないこと、傷口をちゃんと消毒しなかったこと、狂ってでも守りたい場所ができてしまったこと、学びを諦めきれなかったこと。


 等価交換、一年半留年しただけの何かは得られたと思えるか、と聞かれると煮えきれない。


 母がいつか私に言った「生き恥」という言葉に、正々堂々反論することは、できない。



 学位授与式の時間が近づいて、大教室に向かう、その前に卒業生たちに逆流して礼拝堂に入りこむ。



 高校入学から足掛け9年、ここに通った。

 讃美歌が好きだった。ステンドグラスから差し込む光が好きだった。お祈りの時間の静寂が好きだった。

 礼拝堂は、なんだか一人が集まっている感じがして、一人でもいい気がして、居心地が良かった。


 片付けの進む礼拝堂でぼーっとしていると、親切なひとが写真を撮ってくれた。


 これが最後かあ。



 学位授与式。
 祝辞で「ご卒業おめでとうございます」と聞いて、なんだかようやく実感した。

 その後、学科ごとに教授から証書を受け取る。
 やめちゃったゼミの教授で、やや気まずさはありながら、それでも「おめでとうございます」の定型文が心に染み込む。


 私、ちゃんとおめでたいんだな。

 ふつうのひとより一年半も余分にかかってしまっても、これってちゃんと、おめでたいんだな。

 よかった。



 授与式が終わる。



 私にはもう一つ、やるべきことがあった。


 それは、高校の図書室に本を返すこと。

 「高校演劇セレクション」という、脚本集のようなものを借りたっきりだったのを、引っ越しの時に見つけたのだった。
 こういうところ、本当に良くない。

 もちろんお借りしたものは返すべきだから返すのだが、それと同時に、私はなんだかこれを終えることで何かの清算としたかった。


 「何か」とは、忘れ物、傷跡、記憶、トラウマ、後悔、なんだろう、そういったそれら。
 次に進まなければならない私の脳内にいまだに散らかっているものたちを、片づけなければならない。


 本は案外すんなり返却できた。
 司書の方は優しくて、本当にすみませんと謝る。

 まだ授業中で人気のない校舎を、こそこそと小さく徘徊する。

 高校は、私たちが卒業してすぐに取り壊されて改築された。
 だから、私(たち)の記憶の場所はおおかた消し去られてしまった。


 担任だった教師にバッタリ遭遇した。


 そうか。そういう運命か、と悟って、会釈する。(こういう考え方、やっぱりちゃんとキリスト教に染まっている)


 何年ぶりだろうか。

 人生でもっとも苦しかった時期の一つが、この先生のクラスにいた時だった。

 クラス替えをした後の5月ごろ、人間関係に怯えすぎて便所飯をしていた私を呼び出して個人面談をし、クラスの顔写真一覧(メモ付き)を開き、「どの子なら挨拶できる、とかはある?」とにこやかに尋ねてきたのが怖くて、泣いた。

 屋上みたいな屋上じゃないみたいな場所と古い方の女子トイレだけが、保健室にさえ行けない、不登校にもなれない私の居場所だった。

 屋上みたいな屋上じゃないみたいな場所の、さらに一番奥にある非常階段を少し下ったところで、当時はiPhoneに付いてきた有線のイヤホンで大森靖子とみんなのこどもちゃんを繰り返し聴く日々だった。

 このころから、私の「めちゃくちゃ」、ひいて言えば破滅衝動は始まっていた。

 いや、正確に言えば生まれた時点からめちゃくちゃの素質は確実に持っていたのだが。

 水泳の授業がなかったら、私はもっとボロボロだったと思う。


 信頼できる大人だと思っていた。
 いつかnoteに書いた私の人生の3人の恩師の、ずっと書いていなかった3人目。
 向かうべき生き方を教えてくれた1人目、こういう生き方もあると示してくれた2人目、そして、生きることの意味に一緒に向き合って私の生き方を肯定してくれた3人目、だと思っている。

 当時は本当に、今よりずっと無口で暗かった。笑ってしまうくらいに。
 コロナ禍前にずっとマスクで、毎日黒タイツ。自由な校則のおかげで過半数が派手な髪色をしている中でずっと黒髪ロングで、と、多分見るからに陰鬱な女子高生だった。

 諦めていた気がする。
 違いを超えて分かりあうこと、愛し合うこと、共有することを。
 人はそもそも違っていて、加害性を持っていて、近づくことは傷つけあうことだと思っていた。

 そんな私が、自分の中身を、一つずつ言葉を選んで繋げてかたどっていくことに再び向き合えるようになった。


 うん、大切で、必要な時間だったんだろう。 

 とはいえ空白の4年は長くて、私は全然人見知り初期化されてしまって目を見られなくて、いや、多分私は今の私が恥ずかしくて情けなかったんだと思う。それで、先生とどんなトーンでどんな表情で言葉を交わしていたのか、交わせばいいのか、を忘れてしまっていた。


 「あそこ、今は何があるんですか」


 私が居た場所。

 私が居た場所には、チャペルホールなるものができていた。光が綺麗に入る、素敵な空間だった。あの寂れた雰囲気なんてどこにも感じさせなかった。

 私ひとりぼっちだった場所に、今はわかんないけど100人とかそんな生徒たちが集まっているんだと思うと、不思議だった。

 私の孤独を受け止めてくれたあの空間は、新しくて綺麗で隙のない建物の中のどこにも残っていないんだろう。

 勝手に、今この高校にいる私のような陰鬱な生徒のことを考え、気の毒に思った。


 上にテラスがあるよ、と、もう一つ上の階に案内してくれた。 

 常時閉鎖らしく、わざわざ鍵を持ってきて開けてくれたそのテラスは、やっぱり綺麗で洗練されていて、そして私が見た景色より1階分高かった。

 同じ空なはずなのに、それは全く違うようにも見えて、それは空が変わったのか私が変わったのかどちらだろうと考えてしまって、それだけじゃなくて、とにかく苦しくて溺れるみたいな気持ちで過ごしていた高校時代のことを思い出して、涙が出てきた。


 眼鏡っていうのは、強い女の装いだ、と思っている節がある。

 眼鏡は、泣くのに不向きだ。

 俯いて涙をこぼすと、水滴がレンズに着く。

 私は6年経ってもやっぱり強い女のフリしかできなくて、おとなしく眼鏡を外した。

 ぼやけきった景色は、それならば6年前と同じように見えた。

 卒業式だからって、慣れないマスカラをつけてきたのにな。



 涙を拭いたら空が綺麗に見えて、写真を撮った。



 帰り道のことはなんだか、覚えていないな。

 別れ際、「また遊びにおいでよ」と言われたのは覚えている。

 この人は当たり前にずっとここにいるんだ、いつ行っても迎えてくれるんだ、と思った。


 そういうアイドルになりたかった。

 ごめん、今はそういう話じゃないね。


 ああ、そうだ、あと、私は、「幸せですか」と聞いた。私ってしばしばそういう抽象的な質問を投げてしまう。


 そんな感じ、で、帰ってきて高校からの8年半のことをぐるぐるぐるぐる考えて、いる。


 私は思惑通り、清算できたのだろうか。

 今の所なにもスッキリ消化などできていなくて、まあそんなもんか。

 とにかく明日からは学生でなくなって、とは言っても差し当たって明確に大きく何かが変わるわけではない。学割が効かなくなるくらいだ。

 私の肩書き、現在「インターネット・アイドル」のみ。


 借りパクしていた本と一緒に モラトリアムに居座る権利もちゃんと返して、私は大人になっていく。予定。













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