ミスiDは普通にしろ

「お前らは生きづらさに憧れている普通の人間だ、でも普通は普遍で素晴らしいことなんだから健常者らしく普通にしろ」
は、真でしょうか?

ミスiD参加者について、まあそんな感じのツイートを目にして考えたのですが。

ちなみに上記は複数のツイートを私なりに要約したものです。
本来なら意見を述べるのなら全文引用して部分ごとに示して読解していくのが正しい筋だと学校でも習います。でもここは学校ではないので、Twitterという自由度の高いSNSでの「呟き」に対して私がよく考えて推敲した肯定的でない文章を添えるのは、いささか好戦的に見えてしまうかな、と思いました。
べつに私ごときがそれをしたところで、でしょうが、私は私の中での正しさを優先します。
なので、「たとえばこのような命題があったとしたら」から始まる私の長い空想だと思ってください。

「お前らは生きづらさに憧れている普通の人間だ、でも普通は普遍で素晴らしいことなんだから健常者らしく普通にしろ」

では、私には「健常者」でない肩書きが複数あるから、私は社不アピールをしてよくて、或いはそうあるべきで、そして普遍的ではない存在なのでしょうか。

普通とか普通じゃないとか障害とか病気とかってすごく線引きが難しいものだと思います。
注目を集めるために無理にきをてらうこと、それには私もあまり賛成できません。それは、正しさや良さや他者からの評価のためではなく、その人自身のために、です。
だから、その人がいいならべつにいいと思います。

たしかに私のような「障害者」「病人」と名付けられるような人間は普遍的ではないと言える。
けれど私のような人間が存在することは普遍的だろう。
ここの違いがきっと大事。

では、私のような人間が普遍的でないとして、それは素晴らしくないことなのだろうか。
普遍的であることを肯定的に取り上げていると言うことは、まあ、そうなんでしょう。

私が当事者だから言いにくいっていうのはあるんですけど、心理学科生として、というかそうでなくとも単に社会に生きる人間として、それは正しいとは言えないんじゃないかなあと思います。

普遍的でない人間が存在することは普遍的だし、
普遍的でない人間も、彼らが存在することも、どちらもただの事実で、そこに善し悪しはない気がします。
あるとすれば、彼らが社会にどのように存在しているかという物差しが加わった時にその評価は発生します。

彼らが悪い意味で普遍でないことを感じながら生きているのなら、その普遍的でなさはきっと悪く作用しています。
たとえば目がほとんど見えない人は、点字ブロックや白杖というアイテムを利用したとして、その他の人よりも線路に転落する割合は高いし、普遍的でない注意を払いながら生活しているでしょう。
一方で、もし彼らが悪い意味で普遍でないことを感じずに生きているのなら、その普遍的でなさはたぶん悪く作用していません。
たとえば目がそれなりに悪い人は、眼鏡やコンタクトレンズというアイテムを利用することで、ほとんど不便を感じずに、つまり普遍的でないことを意識せずに生活しているでしょう。(とはいえ出費は多少かさむわけですが)

普遍性の有無に善し悪しの尺度を与えるのなら、こんな感じになるのではないかなあと思います。

何が言いたいのか。
もう私もわからなくなってきました。
とにかく、学校とか家族とか、この世界がまわっていくために設定されているシステムとしてのこの「社会」ではうまくやっていけない、普遍的でない特徴を持った人というのはいて、それに名前もついています。一方で、その特徴自体は普遍的でなくても、その特徴をもったその人はそうとは限らないし、その人が存在することは普遍的なことです。

人はたいてい、それぞれに大小の生きづらさを持っているでしょう。それに名前がついたってつかなくたって、お互いに大切にしていきたいものです。急に道徳の授業みたいなことを言ってしまったね。

診断名は、自分の中の普遍的でなさをぶちまけていい免罪符や許可証ではないでしょう。
普段私たちが生きるという戦いをしなければならない社会というフィールドでは足枷になってしまうその特徴を、ここでは隠さず、殺さず、良さを見出して、あるいは見出して!と言って、生きていていいんだよという場所、それがミスiDというフィールドなのではないでしょうか。

だから、ミスiDというフィールド内においては、診断名そのものは特別な意味は持たない、と思っています。あれらは、社会というフィールドにおいて、そこでうまくやっていけない特性を持った人を他と区別してそれに合った特別な対応な配慮を受けられるよう(服薬、介助など)つけられるものだと思うからです。
障害を障害たらしめるのは社会です。たとえば、発達障害と呼ばれる特性を持った子供がいたとして、中学受験にしのぎを削るような私立小学校に通っていればその子の多動や衝動性は小学校生活に支障をきたし、「障害」となるでしょう。しかし、窓際のトットちゃんが通っていたトモエ学園のような環境だったらどうでしょうか。伸び伸び過ごせてそれを認めてくれてフォローしてくれる大人がいて生活に支障をきたしていなければ、それは障害ではありません。そういう定義です。
その点で、ミスiDというフィールドはそもそも様々な特性をその人にとってマイナスにしない場でしょう。ミスiDはトモエ学園です。トットちゃんを「障害者」にしません。ミスiDは、健常者のためのこの社会とは違うのです。
 ただもちろん、「社会というフィールドには存在しているがミスIDというフィールドには存在していない人間」は山ほどいますが、逆はいません。ミスIDというフィールドに存在する人間は必ず同時に、社会というフィールドにも存在している(させられている)のです。だから、社会での生きづらさをミスiDで表現するのもアピールするのもごく自然だし意味のあることでしょう。
社会というフィールドで足枷となるから名付けられているその診断名は、ミスidというフィールドに限れば意味を持たない。しかしミスidに存在する人間は同時に社会でも闘っているのだから、社会で意味を持つものとしての診断名には、ミスidにおいても意味がある、というのが私の解釈です。

普通にしなくても良いです。学校に行けないのも人と喋れないのも時間を守れないのもたぶん普通じゃないです。でもなにかしらの普通じゃなさを持つことは普通です。普通が評価される普通のための世界で普通でありたいと願うのも、普通が評価されない普通のためじゃない世界で今まで押し殺していた自分の普通じゃなさを増幅させるのも、普通じゃないけどほんとうはこうありたかったって自分を演じるのも、たぶん普通です。
普通って言えばたぶん大体普通です。
普通になりたいのも、普通なんて言われたくないのも。
それで良いんだと思います。
ただ、いわゆる「普通」にだけ価値を見出して、それは素晴らしいことなんだから普通にしてろ、というのは、社会というフィールドでの物差しをそのまま押し当てる行為なので、そのフィールドの評価対象でない彼女たちにとってはお門違い、というところなのではないでしょうか。

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