水になれない私たち
幼馴染と水に触りに行った。
朝、お菓子とお水を買って、迎えに来てくれた車に乗った。
朝早かったから道中は眠たくて、けれど助手席の定めとして決して寝てはならないと知っていたから必死で我慢した。歌ったりした。
川への道は難しかった。
細くて木の根にまみれた道を下ると、川にたどり着いた。
なぜだかローファーで行ってしまって、大きな岩に靴を置いて水に入った。
川は海よりも冷たい。
少し上流に歩くと小さな滝があって、滑らかな岩肌を伝う水は薄っぺらいのに確実に流れていて、そのたしかさが、とてつもなく大きくて、少し怖くなった。
滑り台のようになっている滝の上に登ろうとしたら転んでしまった。
横受け身をとったけれど、腰は痛かった。
柔道をやっていてよかった。
その後もずんずん川を進んでいたら、転んだ時についた手から血が出ていた。
幼馴染曰く、私は昔からずっとどこか怪我していたらしい。
確かに、中学校初日に家の前で盛大に転んで膝から足の甲まで血が流れて、けれど保健室の場所がわからないから放っておいたり、した。
怪我をした分だけ瘡蓋ができて、瘡蓋ができた分だけ瘡蓋を剥がしてきた。
ただでさえ私は代謝が悪いのにそんなことをするから、身体中に傷跡がある。
やっぱり身体と精神は繋がっている、というか精神は身体なんだと思う。
私の精神も代謝が悪くて、瘡蓋をよく剥がす。
先日24歳になった。
何歳の私までが私に残っているのだろう。
イルカは2時間で全身の皮膚が入れ替わるらしい。
私はきっと、24年間で一周も代謝が終わっていない。
少し前に行った水族館で触ったイルカは、つべつべで、言葉にできない愛おしさに涙が出た。
眠ろうとベッドに入った時、お土産屋さんで買ったおおきな水色のぬいぐるみ「いるくんボアL」を撫でると、ふわふわな生地を通してあのつべつべが蘇って、泣きそうになる。
私は言語化して説明できないことがとても怖い。
最近自分が怖がりだと知った。
言われてみれば確かに怖いことはたくさんあるけれど、これはそのうちの一つ。
二日目の朝、朝焼けを見に行くことにした。
私はお化粧とかしなくていいから、と私より遅くに起きた幼馴染は、結局お化粧を始めて、空は白んできた。
それを、どのような文脈で解釈すればいいのか分からなくて、説明もしてくれないから、怖かった。
朝焼けに対する情熱が違うのか、昨日調べた朝焼けの時間を忘れてしまったのか、鏡を見たら思ったより浮腫んでいてお化粧をせずにはお外に出られないと思ったのか、私が感じているほど二人で朝焼けを見るということを大切に思っていないのか、私が早起きした分準備を早く終えてぼーっとしているその時間、その事象が、どうして起こっているのかが分からなくて、怖かった。
私は言語化されないことが怖いわりに、言語化を促すことも苦手だ。
「早く行こうよー」とか「やっぱりお化粧したくなった?」とか、言えば、いいのに。
小さい頃から、私は言語化することに多くの人より大きなリスクを抱えていたのだと思う。
小学一年生の時、何かで母に怒られて、「嫌なら出ていけばいい」というようなことを言われて、なので外に出た。
夜中にパジャマでふらふら歩く小学一年生を、何人かの人が心配して、声をかけてくれた覚えがある。
同級生一家がたまたま通りかかって、「どうしたの!?一緒に帰ろう」と家に連れて帰ってくれた。
同級生一家が居なくなった後、目があった母が一言、「どうして帰ってきたの」と言ったのを、ずっと覚えている。
あの日から私は、どうして母の娘として生きているのかわからない、許されていない存在だった。
肯定以外の言葉をあげるのは、反逆であり、悪であった。
今は肯定でも否定でも、肯定でも否定でもないよくわからないことでも、うんうんと聴いてくれるひとたちがいることを知っている。知っているのに、やっぱり声を出すのは怖いときがある。
幼馴染とよく人生を振り返る。
私たちの生まれとか育ちは結構遠いところにあって、ただ家が近くにあった。
それで、22年経った今も一緒にいるのだから、物理的な距離というのはとても偉大である。(今は離れてしまったけれど)
インターネットに生きていると、その不確かさに不安になる。ほら、また、怖がり。
フォロー数、フォロワー数という数字がある。いいねの数字があって、リプライという文字もある。
けれど、その繋がりが限りなく頼りなく感じる瞬間がある。
1センチにも満たない厚みの水の流れよりも、ずっとずっと不確かで頼りない。
水は絶え間なく流れてとめどなくどこかに行ってしまうのに、水という普遍的な概念として不変的で、インターネットの人々は識別できる一人ひとりとして個別性が高くて不変的でない。
1メートル流れてきて1メートル流れていった水をそうとは意識しなくても、一人増えて一人減ったフォロワーは、一人増えて一人減ったと意識する。
みんながご近所さんだったらいいのにね。
私たちは水にはなれないのに、水みたいに流れる日々に生きていて、気づけば離ればなれになってしまう。
柔道も水泳も習っていたのに、あの時はバタフライだってできていたはずなのに、私は離れていく君を追いかけることもできず、むしろ溺れかけながら生きている。