民主主義の欠陥
アメリカの場合
先日開かれたCOP26にアメリカのバイデン大統領が出席した。前回のCOP25にトランプ大統領は出席せず、さらにパリ協定からの離脱も表明した。その後、共和党から民主党に政権が変わったことで、アメリカはCOPに戻ってきた。
COPだけではなく、TPPのときもそうで、アメリカは一度結んだ約束を簡単に破る。そしてそれは、民主主義の結果だから、というだけで許されてしまう。
あのときアメリカ国民は民主党を選んだ。だが、今回は共和党を選んだ。だから、民主党時代のことはすべてなかったことにして、新しい政治を始めよう、と。これはアメリカ国民にとっては都合のいいことだが、アメリカ以外の国にとっては迷惑でしかない。
なぜその迷惑が非難されないのかというと、民主主義は正義だということになっているからである。アメリカは正当な民主主義の手続きを踏んで政権交代を行っている。その結果、アメリカ政府の外交方針が変わったとしても、我々は彼らを非難できない。なぜならば、それを非難することは民主主義を否定することになってしまうからである。
民主制のもとでは、政治は国民の総意に基づいて行われねばならないが、国民はその結果に対して責任を負わない。というのも、いまは秘密投票が普通だから、責任の所在を明らかにすることができないのである。ゆえに、投票の結果として政権が交代し、以前の政府が外国と結んだ約束を守れなくなったとしても、誰も責任を負う必要がない。というより、誰かに責任を負わせることができないような仕組みになっている。
それは、その国の国民にとってはよいことだろう。自分の政府を自分で選べるし、その結果に対して責任を負わされることもない。だが外国の人々からすれば、これほど迷惑なことはない。民主国家は国際社会に対してあまりに無責任である。
我々は民主主義を無条件に肯定するべきではない。さもなければ、アメリカの無責任な態度を非難することができなくなる。長期的に見れば、それは必ず不利益をもたらすだろう。
イギリスの場合
民主国家は国民に対しては誠実だが、外国人に対しては不誠実である。その最たる例はアヘン戦争だろう。アヘン貿易は錬金術である。イギリス人は中国人の命を金に換え、それによって国庫を潤していた。
イギリス国民にとってこれは利殖の手段にすぎず、アヘン戦争はイギリスの利益を増やしてくれたよい戦争である。しかし、中国人にとってはたまったものではない。同胞の命が奪われ、国が壊されたのである。
この戦争に限らず、アジア諸国を植民地化して搾取を続けていた間、イギリスはずっと民主主義国家だった。イギリスの民主主義は、たしかに自国民の利益を増やすことには成功したが、その一方で他国民には多大な犠牲を強いてきた。これは人類の福祉に貢献するものではありえない。民主主義は一部の人々の利益を増やすだけで、社会全体の福祉を向上させるものではない。それは大局的に見れば有害である。
では、どんな政治体制がよいのかといえば、何でもいい。大事なのは制度ではなく中身である。結局、政治を行うのは人間なのだから、人間の資質が重要になる。ゆえに、どうすればよい資質を持った人間を作れるか、ということを考えなければならない。つまり教育の問題である。
制度についてどれだけ考えても、よい政治を実現できるわけではない。よい政治を行うためには、よい政治とは何か、ということを考えなければならない。人間は制度によって動いているのではなく、自分の意志によって動いている。ならば、個々の政治家が正しい意志を持つことこそ肝要であり、それができなければ、どんな制度であろうとまともな政治は期待できない。制度によって正しい政治が実現される、という思い込みほど危険なものはない。
大切なことは、論語と孟子を読むことである。政治家に必要な資質はすべてその中にある。
日本の場合
私が年来危惧していることに、漁獲量の低下がある。日本近海で取れる魚の量が年々減っているのである。最近ではこれに加えて、温暖化による魚の生息域の変化という問題も起きているが、両者は区別して考える必要がある。
2015年の日本の漁獲量は352万トンで、1984年の1160万トンの3分の1にまで減っている。こうなった理由は明確で、乱獲である。日本人が魚を取りすぎたせいで、日本近海の魚の数が減っている。それでもなお取ろうとするので、スーパーに並ぶ魚はどんどん小さくなっている。最近のアジはイワシのような大きさである。
この状況を改善するには、漁獲量制限を行うしかない。漁師が取れる魚の量に上限を設けて、それを越えた場合には罰を与える。そうすれば、魚の量を管理して、持続的に漁業を続けられるようになる。日本の食を守るためにも、漁業の未来のためにも、政治はこの課題に取り組まねばならない。
今までのところ、政府の取り組みは不十分である。一部の魚種では漁獲量制限が設けられているものの、全体として見ると十分に機能しているとは言えない。こうなった理由は漁業者への配慮であろう。基本的に、漁師は魚を取れば取るほど収入が増えるので、漁獲量の制限を嫌う。漁獲量制限が導入されたら生活が成り立たなくなるのではないか、という心配がある。また、自分たちが取らなければ他国の漁船に取られてしまう、という競争意識もある。そのため、漁業者は漁獲量制限に反対する傾向がある。
一方で政治家は票が欲しいので、有権者の意思に反する主張をしようとしない。つまり、漁業者の票を獲得するために、漁獲量制限を主張しなくなってしまう。そのために、この国では漁獲量の制限が進まない。政治家が国民に忖度するせいで、政治主導の改革が行えなくなっているのである。日本の民主主義は機能不全に陥っていると言っていい。
本当ならば、政治家が理想を示さなければならない。この国にとってどんな政策が必要であり、それを実行することで社会がどう良くなるのか、その具体的なビジョンを示し、国民の理解を求めなければならない。本当に必要な政策を実行できるように、国民を説得することこそ政治家の仕事である。しかし、いまの政治家は国民の言いなりになるばかりで、自分の理想を持っていない。国民の言うとおりにすれば、社会を改善できると思い込んでいる。これは民主主義の弊害である。
実際には、国民が間違った選択をすることもある。ゆえに、政治家は必ずしも国民の意思に寄り添う必要はない。むしろ国民の間違いを正し、よりよい選択肢を示すことが政治家の本分である。最悪、国民が嫌だと言っても必要なことはやらねばならない。説得できればそれが一番いいのだが。
以上の議論から、民主主義の理念に問題があることは明らかである。そこには二重三重の問題がある。
しかし、このことを指摘する人は稀である。なぜならば、いまの日本では民主主義が正義であることが前提になっており、これを批判することが難しくなっているからである。それはタブー視されているというよりも、人々の意識にのぼらなくなっている。民主主義に対する批判精神の欠如は、民主主義の最大の欠陥である。