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【小説】譲る犬の、譲れないイカ【二次創作】

 形にするのは難しくて、壊すのは簡単なものは何か?
 そのありきたりな問いに、今の私なら迷わず「自尊心」と答える。

 大抵のものは、築くのは難しくて、壊すのは簡単だ。私のような何にも自信を持てない人間にとっては、尚更。

 私は家の近くの中華料理店の前で、深い深い溜め息をついた。

 平日であればランチタイムのサービスメニューがあるけれど、今日は土曜日だ。
 私は陽に焼けたショーケースに鎮座する「イカ炒め定食」の模型を見つめながら逡巡していた。

 昨日、友人に「あなたは譲り性の犬なのよ」と言われた。
 曰く、「犬みたいに従順だけど本物の犬なら自分の欲くらい自覚してる」とのことだ。「犬」呼ばわりに止まらず、「譲り性の」という形容まで賜った理由はそこにある。

 人生には上手くいかない日、噛み合わない日、ついてない日があるものだけど、それらが連なった私の日々は、「最悪な季節」ともいえる様相だ。
 その根っこは、詰まるところ私が「譲り性の犬」だからなのだろう。

 物事がすんなりいかないとき、直ぐに人に譲ったり引いてしまったりする。そんな私が会社で営業部署に居るのはきっと何かの間違いなのだ。「譲り性の犬」は圧倒的に有利な条件の契約争奪にすら負ける。

 社会人になって四年が経った。もう新人とは言えない勤務年数なのに、今期の業績では私が指導係をしていた新人の子にとうとう追い抜かれそうだ。
 上司の、叱責を飲み込んでため息をついたときの顔。挽回する期待すら持たれていないのは、怒鳴られるよりも辛い。

 改札を通るタイミングを、エレベーターの定員を、スーパーのタイムセール品を、「譲って」きた。

 説得を押し切ることは「押し付け」とは違うし、要求を通すことは「横暴」ではない。

 通らない要求に食い下がること、否定を覆すことが苦手で、つい「譲って」しまうけど、その本質は譲っているのではなく、ただ負けているのだ。

 私はまた一層深い溜め息をつきそうになって、飲食店の前で陰気な顔をしているのは営業妨害だと思い直した。

 私は今日、この悪い縁起を全部担いできたような気分を断ち切り、「最悪な季節」を終わらせるために、近所の中華料理店に来た。

 いわゆる町中華と呼ばれるような、町の食堂的な存在であるこの店は、何かと原材料が高騰しているこんな時分でも、良心的な価格で有名店にも引けをとらない美味しい料理を食べさせてくれる。この店があることで、この町の価値はぐっと高まっていると言えるだろう。

 とはいえ、薄給の私にとっては外食というもの自体が贅沢で、滅多に来られる場所ではない。給料日でもない日の、それもランチタイムが無い週末に来るなんて、この町に越して以来初めてのことだ。

 かれこれ十分くらい、私がショーケース越しに穴が空くほど見つめている「イカ炒め定食」。これは、イカ好きの私がこの店を見つけて依頼ずっと食べたくて憧れていたメニューで、平日のランチタイムには登場しない、レギュラーメニュー限定の料理だ。

 ランチタイムのサービス定食が750円であるのに対して「イカ炒め定食」は1200円。紙幣を出しても足りない一食なんて、普段なら選択肢にすらならない。

 食材としてはそう高額でもないイカ炒めが何故この値段なのか。それは模型から察するに、このメニューが「イカ炒め」を名乗りつつ、その実態はカニのほぐし身やホタテやエビの入った海鮮五目だからだろう。
 ではなぜ「イカ」炒めなのか。そこにはきっとイカを主役とするに至るこだわりと味の説得力があるに違いない。

 今日の私は、食べたいものを思う通りに食べると決めている。例えそれが普段のランチ予算の倍以上しようとも。

 そうして「我を通す自分」に出会って、この失敗続きの季節を終わらせてみせる。
 屁理屈にもならない、取るに足らない決意なのかもしれない。しかし、今の私にはそれこそが必要なものなのだ。

 意を決して扉を押し開けると、チャイムが涼しげな音を奏でた。週末昼下がりの、間延びしたような空気感が漂う店内には、それでもまばらにお客さんがいて、厨房の奥では店主が中華鍋を軽妙に操って小気味の良い音を立てている。
 食欲をそそる香味をまとった湯気が鼻腔をくすぐり、決意の昼食に備えて昨日の夜から何も食べていない私のお腹を唸らせた。

 カウンターに座ると、店主が水の入ったグラスを置いて「ご注文は」と聞いた。

「イカ炒め定食お願いします」

 私は確固たる意志で言った。この一食で、私は変わるのだ。
 店主は、あちゃあ、と言わんばかりに顔に皺を寄せた。気まずい空気を察して、嫌な予感が過ぎる。そんな、まさか。

「すみませんねぇ、イカ終わっちゃったんですよ」

 そんな、そんなことって……。どうして私はこうなんだろう。いつもは尻込みして譲ってばかり。そんな自分を変えたくて、一大決心をして臨んだ小さな挑戦すら叶わないなんて。

「そ、そうですか……」

 やっぱり、普段と違うことなんてするもんじゃない。
 こんなことをしても、何の帳尻も合わないのだろう。だけど、風が吹けば転げ落ちてしまいそうな崖の突端まで追い詰められた私には、自分の気持ちを押し通した先にある勝利の味が必要だった。
 私が明日への一歩を踏み出すには、どうしてもイカ炒めを食べなくてはいけないのだ。

「あの、どうにかなりませんか」

「え?」

 縋る思いで口走った私の言葉に、店主が戸惑っている。そりゃあそうだろう。でも諦めきれない私は、光明を探した。

「そうは言っても、イカを切らしてしまいまして」

 店主は困り顔で言う。イカが無いんじゃあ、イカ炒め定食は食べられない。仕方ない、そんなことだってある……でも、それなら、イカがあったらいいの?
 何故だか私の脳にはアドレナリンだか何だかがドバドバ出ているらしく、極端なことを思いついた。

「あの、イカを買ってきたら作ってもらえますか?」

「え?」

「私、イカ買ってきますね!」

 私はカウンターを突き飛ばす勢いで立ち上がって、店の外に飛び出た。

 今の私は多分どこかおかしくなっていて、だから、こんなのは絶対に変なことなのだと分かっていても走る足を止められなかった。ここで立ち止まって冷静になってしまったら、二度と悪い癖を断ち切れないような気がして。

 祈るような気持ちで商店街を走る私は、もう何がなんだか分からなくて、試験時間ギリギリに会場に急ぐ受験生みたいな、あるいは、間も無く遠くに旅立つ想い人に一目会いに行こうとする若者みたいな、そんな必死さで魚屋を目指していた。

 息を切らせてイカを買いに来た女は、さぞや異様だったと思う。

「イカを一杯ください。その、沢山って意味じゃなくて」

 意図せずつまらないことを口走ったりなんかして、とにかく私はイカを手に入れたのだった。

 ビニール袋に入った丸ごとのイカを下げて中華屋に戻った私を、店主は怪現象を目の当たりにしたような目で見ていた。

「これ、その、イカを買ってきたので……」

 私がイカの入ったビニールを差し出すと、店主は戸惑いながらも受け取り、「じゃあ、イカ炒め定食で……」と言った。

 かくして私は「何か」に勝利して、その証左として目の前に置かれたイカ炒め定食に、手を合わせた。

 私が「仕入れた」イカが、カニやホタテやエビに混じって、塩味ベースの出汁が香る油を纏っている。

 箸を伸ばして、一切れのイカを口に入れると、瑞々しく弾力のある食感とともに、海鮮の旨味が溢れた。その余韻を残したまま、湯気の立つ白米を口に運び、感嘆する。

 カニの、ホタテの、エビの風味が一体となってイカを「完成」させている。その絶妙を余すことなく力強く運ぶ白米。

 これが、この香りと味と食感が、この一食を「イカ」炒め定食と称する説得力なのだと、このために私は戦ったのだと納得するに十分な一口だった。

 ふと、視界がぼやけて、目を拭うと、私はボロボロと大粒の涙を流していた。

「ううー……」

 声とも唸りともつかない音を漏らして、涙を流しながらカニを、エビを、ホタテを、そしてイカを口に運び、白米を掻き込む私は、掲示板に番号を見つけた受験生であり、想い人に気持ちを伝えた若者だった。

 これで何が変わったわけではないのかもしれない。やっぱり私は「譲り性の犬」なのかもしれない。でも、今日この瞬間の私は、間違いなく、否定の余地なく、「勝って」いた。
 この香りが、食感が、味が、まぎれもなく私が知覚している五感が、私が「譲らなかった」事実を証明している。

「あのう、買ってきてもらったから、これはサービスです」

  と、店主が私のイカ炒めの皿の隣に添えたゲソ唐揚げを口にすると、更に涙が溢れて、私は震える声で「美味しいですぅ……」と言った。


                                 了


※この小説は、Vtuberさんの配信内の雑談内容を元に書いた二次創作です。

当該のトーク:5:33~

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