血がつながっていても、いなくても
「血がつながってないから」という毒台詞
ショックな記事を読んだ。
自分の過去を思い出すような。
記事は、特別養子縁組家庭で育った方が受験勉強で苦戦している際、「(この問題が解けないのは)血がつながっていないからだ」といきなり言われ、それが事実上の「血縁ではない告知」となってしまったという内容。
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現実の話とは思えないくらい衝撃的な話で、「こんなこと本当にあるんだ」と思う反面、当人がどれほど傷ついたかと思うと、胸がキューッと収斂するような思いがした。
当初、彼はあまりに現実味がなかったこともあり、サラッと流していたが、その言葉は徐々にボディブローのように心を侵食しはじめる。
拒食や不眠に悩まされ、メンタルクリニックにも通院するようになる。
そりゃそうだ、それまで生みの親と信じてきた人が、いきなり自ら「血がつながってないからだ」と言うのだから。
身一つで大海に放り出されたような気分だっただろう。
カラダに流れる血を否定され……
カラダに流れる血を否定されるほどつらいものはない。
私自身、奔放だった父方の祖母の血を受け継いでいることを侮辱され、存在を否定されたような気がした。
できることなら、何らかの形で血を取り替えたい。
そうすれば愛してもらえるのではないかと勘違いしていた。
感情が麻痺していたので、メンタルクリニックに行くことすらしなかったが、祖母の血が流れていることを否定されて以降、しばらくの間、自分の存在意義を見失っていた。
祖父の墓探しで得た誇りと自信
自分に流れる血を肯定できたのは、5年前に父方の祖父の墓を探すためにオットと二人で福岡を訪れた時のこと。
父が話していた記憶を頼りに向かった先で、「葉石」と書かれた数多の墓石を目にした時、会ったこともない先祖から歓待されたような気がした。
「遠いところ、よく来たな」と。
周辺の家々も私と同じ苗字の表札がかかっていた。
「きっとこの家の人とも何かしらのつながりがある」と思うと、心強くもあり、また自分のカラダに流れる血が愛おしく思えた。
結局、祖父の墓はみつからなかったが、生前、父が話していた幼い頃に住んでいた船宿や、福岡の美しい海のこと、漁村の面影を墓の周辺で感じることができただけで心がだいぶ落ち着いた。
この墓に眠る人たちとは、直接の血のつながりはないけれど、そして会ったことすらないけれど、何かに導かれて訪れた同じ名字の私を歓迎してくれている。
この名前で仕事をすること、そしてこの血が流れている以上、誇らしく思ってもらうように生きようと心から思うことができた。
記事中の養父のように「血がつながっていない」と否定する人もいれば、特定の人の血が流れていることを嫌悪し、否定する人もいる。
否定された側は深く傷つき、時間が経っても心にはすぐにはがれてしまう薄いかさぶたしかできない。
だが、どうあがいても血を取り替えることはできないのだから、自分で肯定してやるしかないのだ。
記事中の彼は自分と同じ立場の養子に会うことで、当事者しかわからない悩みを共有できることで心が軽くなったという。
その後、彼はこれまで繋がってきた養子たちと支援団体「origin」を立ち上げる。
養子や養親を対象としたサロン、特別養子縁組の制度を知ってもらうための活動を行っている。
現在に至る養父や養母のことが書いていないのが気になったが、今、彼は社会に貢献することで自分の存在を肯定できているはず。
「自分たちは必要な活動だと思ってずっとやってきましたが、周りからも期待の声が寄せられたことで自信になりました」
この言葉にそれが反映されている。
祖父の墓探しから、ちょうど5年。
「またあの場所へ行きたい」と心が叫ぶ。
今一度、自分のカラダに流れる血を誇らしいと思いたい。
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