日本人に生まれたら、俳句をお詠み(さらに)
【大きい言葉を使わない】
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
芭蕉の病中吟、あるいは辞世の句ととらえる人も多い句。有名ですね。
書き留めたのは門人の呑舟。その後しばらくして芭蕉は、蕉門十哲に数えられる支考を呼んで、「なをかけ廻る夢心」と考えたのだが、どちらがいいだろうと問うた。支考は、上五はどうなるのでしょうかと聞きたかったが、体調が悪いのに余計な心労をかけてはまずいと、この句でどこが悪いことがありましょうかとあたりさわりなく答えた。そうやって、この俳句がいまに残るわけだが、もし「なをかけ廻る夢心」が入ったら、どんな微妙な上五になったことであろう、もう聞くことも出来ず惜しいことだと支考は後悔をする。
俳聖芭蕉といえど、人に聞くのです。いやむしろ、三百六十巻もの百韻連歌を残した芭蕉は、この仲間との対話によって自らを磨いたにちがいない。
「旅に病んで」は前に見たように、型はこれです。
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なをかけ廻る夢心
だと、上五はおそらく、
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です。
焦点となるのは「なを」ですね。散文的なレトリックをどう見るか。よしとするか、わろしとするか。「なを」があることによって、上五には切れ、切れ字を持ってこれる。中七はまるまる修飾節、最後は体言止め。あの、芭蕉得意の「古池や」「閑かさや」のパターン。
支考は、そう気づいた。蕉門十哲の真ん中らへんに数えられた支考がとっさに気づかない訳がない。そこで躊躇うほど師の病状は芳しくなかったのだろうか。
私は実は、夢という言葉を夢そのものの意味、文脈で使う芭蕉に疑問を持つ。
夏草やつはものどもが夢のあと
この俳句のファンは多い。これ以上の俳句はないという人も何人か知っている。
私はしかし、これにも懐疑的で、辞世の句にもケチをつけ、一世一代の夏草にも注文をつけようというのだから、我ながらいい度胸をしているものだ。なんだか心の狭い人間のようでもあって、気が引けるが、どうしても作句のコツとして言っておきたい。
私はこれらを好むのはかまわないが、手本にしてはいけない、特に作句の心得を勉強しているときには、真似してはいけない二句だと思うのですよ。
それはひとえに、夢という一語に頼りすぎだから、です。夢という言葉は、その内包する意味やイメージの豊富さからいって、読む人聞く人をなぎ倒す馬力は、漢字多しといえど十指に入るような単語だから、です。同等のものを探すなら、生老病死愛別空色などといった漢字のスーパースターを用意しなければならない。
以前、別のところで季語の大きく強いやつを使う時は気をつけた方がいいと言ったのに似ています。春爛漫とか大花火とか台風一過とか星月夜とか。今いってることは、それのキーワード版と思ってもらえれば。
大きい言葉について、もうちょっと書きます。
旅先に臥して、まだまだ夢は枯野を掛け廻っているなあ、と詠むこと自体はいい。そういう表現はあるでしょう。芭蕉じゃないなら言ってもいい。俳聖芭蕉だから、いけない。それも辞世の句になるやもしれぬというところで、これでいいのか。俳聖のこれらの句を好きだというのはいい、それは仕方ない、でも褒めてはいけないだろう。そういうニュアンス。
芭蕉のそれまでの人生は「夢」だったのだろうか。これはいちゃもんをつけているのではなくて、純粋にそのまま聞きたい、好きだという人に。芭蕉の人生とは「夢」ですかね?最高の発句を作る夢?野望?そういうことなんでしょうかね。
もうひとつの「つはものどもが夢」も、それらはかつて「夢」だったんですかね。武将や武士や足軽が、夢を見ていたのか、どうか。いい国を作ろうという夢?みんなで平和に暮らせる夢?芭蕉は十七世紀末の生まれなので、おおよそ百年ちょっとくらい前の出来事について思いを馳せたということですが、その複雑な戦国の世の事情について疎かったわけはなく、それを万感込めて「夢」といったのだという解釈。たぶんそういうことでしょう。
好みの問題と言われたくないのですが、手っ取り早く言って私はそれを、兵者たちのそれを「夢」だと思わないのです。そんなことじゃないだろう、なかっただろう。日々生きていく、それだけのことだったんじゃないか。耕す鍬の代わりに槍で人を刺す。刺さなければ刺される。それは何かの夢があったから、できたんですかね。
そもそも、それを夢と呼ぶには俯瞰する力がいるでしょう。そんなものがあるわけがないと思うのですよ。武将でさえ危うい。国家や社会という感覚はもとより希薄だろうし、いったいどこに浪漫があるか。全体を見る力は信玄や道三や信長や秀吉にはあったかもしれない。三成にも家康にもあったでしょう。平家物語を知っていて、そこに夢幻を見てとる力はあったでしょう。しかし、彼らが生きた生の全体は「夢」なのかどうか。
百歩譲って、散文としてなら「夢」でいい。物語として書き継ぐならそう言っていいと思います。でも、韻文では芳しくない。なぜか。解釈の余地という、むしろ言葉の指すところが余地だらけという事態を招くからです。余地によって成り立っている言葉とさえ言いうる。解釈の余地が広大に広がっている抽象語をつかうと、イメージの提案にならない。読み手の、半ば勝手な想像に任せる事になる。
大きい言葉を使わない。初心のうちは特に。
これが俳句のコツの7つめです。
(ただ、ひとつ厄介なのは、俳句に限ってだということです。川柳と短歌にはそれらを使える感触があります。断言はできませんが、きっと使えます)