霊魂について
「人間である」ということが「精神性」にしか規定されなくなった結果、高度に発達した人工知能と人間はいずれ区別できなくなるのではないか予感が我々を襲った。これは「精神性」というものが「高度で複雑な知能」という意味でしか無くなったからである。
我々が失ったのは「精神」=「霊魂」というアイデアである。(この点、『攻殻機動隊』シリーズでGhostという概念が頻出するのは非常に適合している。)
「霊魂」という概念を宗教やオカルト的な解釈・文脈抜きに説明することは可能だろうか?差異・区別・用途…これらの「定義のための道具」を使わずに、説明することは可能だろうか?そもそも、このような問いを立てる時点で、「霊魂」を何か理性的なものの支配下に置こうとしているのではないか?そのような目論見は正当か?
「霊魂」の在る無し。可愛がっていた犬・猫などのペットが死んだら、お墓を建てる。死んだあと、お化けになって出てくるかもしれない。では家畜はどうだろう。虫は?
愛着の有無・濃淡、生命倫理、そもそも「生命」の定義、これらにこだわることなく、我々が「これには霊魂が宿っており、死んだ後霊魂がどこかへ行く」という想像力はどこから来て、どのように働くのか。単純に宗教文化によって教えられた、それだけなのだろうか?
唯物論、宗教学、あるいは文化人類学…、これらの隙間にあるような「霊魂」についての説明は、何かないのだろうか…?
新実在論的オカルトの可能性。
霊魂から離れて「幽霊」について考えてみる。
「幽霊」の定義。
① 本来死んでいるはずのもの(失われたはずの生命)がそこに存在すること
② 本来生命が無いはずのものに生命が存在すること
③ 一般的な生物とは異なる形態や法則性をもった生命が存在すること
「幽霊」とは、そこに本来無いはずの生命的な存在、あるいはその影や痕跡があることを感じ取れる存在である。
例え話。本来そこにあるはずのないチーズケーキ。姿は見えないが、チーズケーキの存在を感じる。(例えば匂い、熱、そこに「ある」という気配。)写真の中に、そこにあるはずのないチーズケーキが映っている。これを見た・感じ取った人は果たしてこう言うだろうか―「チーズケーキの幽霊だ!」と??
スピリチュアル的な信仰を持っている部族では、あらゆるものに霊的な存在を見て想定しているだろう。風が吹けばそこのは風の霊が存在し、病気になれば身体の中に悪い霊が存在していることになる。唯物論者からすれば、霊とは無知な人たちが頭の中で描いたファンタジー=誤った説明、ということで話は終わりだろう。
またスピリチュアル的な霊(sprit)の存在を生命のある(あった)ものとしての霊(ghost)と一緒にして良いのかという疑問もある。(spiritは死なない?神的なもの?)
幽霊に対する考えは生命に対する考えから由来する。つまり、“死ぬもの”とただ“消滅するもの”の違いである。(チーズケーキは食べられても死なない)
少し分かってきた。「霊魂」とはすなわち「生命がある(あった)」ということである。霊魂を巡る疑問は、精神や意識があるかどうかという問題ではなく、生命があるかどうかという問いである。
「生命とは何か?」というような定義問題をこれ以上考えても面白くない。「生命が“ある”とは、どういうことか?」という存在に関する疑問。
今これを考えている私に生命が“ある”とすれば、そんな私の目に映るものすべては生命が“ある”世界の中から覗いた景色だ。ここから“ある”と“ない”について考えることは難しい気がする。また生命が“無くなった”について考えるということはすなわち「死」について考え想像するということであり、さらに困難だ。
植物の問題。植物は生物だ。生物には生命がある。植物は生まれるし、死ぬ。
では植物には霊魂があるのか?樹齢数百年の樹木は神木とか霊樹などと呼ばれて、なるほど霊魂が宿っていそうな雰囲気だ。しかしその辺の雑草はどうだろう?今朝食べたトマトは?
植物ではなく虫だったら?昆虫に霊魂はあるか?一寸の虫にも五分の魂?
こうした疑問から、生命→霊魂→知能と移り変わってしまったのではないか。つまり知能が霊魂の有無・大小を区別する本体になってしまった。犬や猿やイルカ、そして人といった知能が高いものには霊魂が宿る。
しかし霊魂があるかないかという区別の問題は大した話ではないように思える。イルカは賢いから食べちゃだめだ、いや霊魂があるから食べちゃダメだ、といった識別・文化については、この際どうでも良い。
物質的領域内での関係性。食べるとか食べられるとか、使うとか使われるとか、良いとか悪いとか―、これらの議論については認識とか言語とか文化とか経済とかそういったよくある分析論に道を譲ろう。
興味があるのは「霊魂が“ある”」とはどういった意味なのか、ということ。
マルクス・ガブリエルによれば、何かが“ある”というのは、それを位置づける・内包する領域(domain)があるということだ。それを含んで包むdomainがあるから、“ある”と言える。
このガブリエルの新実在論に依れば、目の前にリンゴが“ある”も空想の中にユニコーンが“ある”も両方「存在する」と言える。なぜならそれを含んで存在せしめる意味のdomainが確かに存在するからだ。
だから霊魂が“ある”と言ったら、そこには霊魂の存在を含んだdomainがあるということだ。そのdomainを霊界と呼ぼうが幽界と呼ぼうが、そこは問題ではない。domainが何であるかという問いも特に重要ではない。
考えられること。ひとたびdomainの中で存在することを認めれば、したがって次のことも認められる。「可能性」があるということだ。
「可能性」とは「出来る」ということではない。「出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。どちらにせよ、そういったことが“可能”であること」という〈可能性の可能性〉。
“ある”ものは目で見られるかもしれないし、見られないかもしれない。触れられるかもしれないし、触れられないかもしれない。それについて考えられるかもしれないし、考えられないかもしれない。どちらにせよ、そうして私たちが扱うことが可能かもしれないし、可能じゃないかもしれない。あるいは私たちが別に何もしなくたって、勝手にどこかで何かが出来るかもしれないし、出来ないかもしれない。
〈可能性の可能性〉とは、このような可能性を可能にする可能性である。
“ない”もの(非存在)には、この〈可能性の可能性〉も“ない”。
無論、“ある”の領域から見れば「あるものがないかもしれない」という〈可能性の可能性〉がある。しかしこれは“ある”の持ちものであり、“ない”のものではない。
例え物質主義的な、科学的な領域内で存在が証明できないからと言って、「霊魂」についてあるとかないとか議論したり、見たとか見ないとか語ることは「出来ない」とは言えない。既に言語や概念や文化の領域内で存在する「霊魂」についてはその〈可能性〉について考えることは完全に〈可能〉である。
しかしここまでの思索を振り返ってみても大して面白い話にはなっていない。
「霊魂は“ある”って言えるから“ある”ことには“ある”」だとか「“ある”ってことはあり得るかもしれないしあり得ないかもしれない可能性がある」みたいな、何か言っているようで当たり前のことしか言っていない気もする。
話を「霊魂」から「生命」に戻してみよう。
「生命が“ある”とは、どういうことか?」
→「生命」を内包し位置づけるdomainが存在するということ。
このdomainを「この世(此岸)」と呼んでしまえば、ガブリエルが言った「世界」と同じになってしまう。つまりこれだけがdomainを特定できないため「存在する」と言えない。
「この世(此岸)」は「あの世(彼岸)」との対であろう。しかしこの対が世界の全てであるならば、やはりセットで「存在できない」と言わざるを得ない。
「あの世(彼岸)」には「生命が“ない”」としても、“ない”が“ある”という意味でやはり概念的な「反対側の世界」(the world of the opposite side)でしかない。
浄土仏教では悟りを得て行く先を浄土と呼ぶくらいであるからやはり土(land)というdomainがしっかり用意されている。
(閑話休題。子供のころから気になっていたこと。死後霊魂が天国に行ってそこに居るならば、まだ死んでいないじゃないか、ということ。うっかり足を滑らせてベランダから落ちて死んじゃった人。たとえその霊魂が天国という素晴らしいところに行けても、自分が「ベランダから落ちて死んじゃった」ってことを覚えているならば、自分のマヌケさを嘆き後悔し、さらに残していった家族友人の悲しみを想い果てしなく泣いて苦しむだろうな、と。地獄だな、と。あるいはもし生前の記憶が記憶喪失みたく無くなるとしたら、もはやその人は「その人本人」じゃないくて、「別の誰か・何か」だなと。)
「生命が“ある”のはこの世だ、この世界だ」と言ってしまえばあってもなくても同じことになってしまう。もっと領域を狭めて考えたい。
「生命」が“ある”のは生物が生まれてから死ぬまでの間だ。死ぬと「生命」は無くなってしまう。(無くなってどうなるかは、それこそ「霊魂」の領域の話だ。)
そう考えると「生命」の“ある”領域には時間がある。始まりがあり、終わりがある。前があって後(先)がある。
時間が“ある”とはどういうことか?難し過ぎる。ここでは考えない。「時間が“ある”可能性が“ある”」=〈可能性の可能性〉ととりあえずは取り置いておく。
これを時間性だとか有限性だとか仰々しく定義すると余計ややこしくなる。
生物学的、科学的な領域における「生命」の定義すらかつぐことなく「生命」が“ある”と言えるのは、まず私たち自身がこの〈可能性の可能性〉を持った存在であることを自覚していることにある。私たちは自らの存在=生まれて死ぬ存在=生命について、扱い、考え、位置づけることができる。「生命」→実存?
★実存とそのdomainはメビウスの帯?実存はdomainの中に存在しているが、そのdomainは実存によって存在することが可能になっている?実存はdomainの中にあり、domainは実存の中にある?
〈可能性の可能性〉を自覚している存在。それは別に「生」や「死」について概念的に知っているということではない。自らの存在する領域が〈可能性〉を持っていることを知っているということ。
右に行きたければ右に行くということ、危ないモノが来れば避け、欲しいモノがあれば近づくこと。息を止めれば苦しいということ、苦しいと死ぬということ。
無意識/意識、本能/意志、こうした区別は重要ではない。知性の有無や大小も関係ない。『自覚』があるというのは、自らが自らを行使することで自らの〈可能性〉を実現し証明する存在である。
それでは石ころと何が違う?石ころだってあっちに転がりこっちに転がり、砕けて散ったり苔むしたりと、色々な〈可能性〉を持っているじゃないか。
この問題は、客観的な、真理としての〈可能性〉の有無、絶対的な基準・区別という点でモノとイキモノを区別しようとするから嵌り込む罠だ。それは石ころ(モノ)と動物(イキモノ)を「世界」という共通かつ一元的なdomain(=存在しない!)に引き入れることで生まれる悩みだ。新実在論ではそのような悩みを必要としない。
★生命がある→〈可能性〉を持つ;この図式は正しい?
〈可能性〉を持ったdomainの中に“ある”存在→実存=生命;こうだとしたら?
〈可能性〉が“ある”のはどこ?生命=実存の中?その外?
ふたたびメビウスの帯的な解釈。即ち、生命とはこの〈可能性〉を持ったdomainの中にある存在であり、且このようなdomainを作りだす『〈可能性〉の力』を持ったもののことではないか。→超越論的・形而上学的になってしまう・・・。
★生命だけが、自らを置く空間(domain)を必要とし、自らその空間(domain)作り出す。→これが生命の存在論的定義(?)
意識について。「自らの存在する領域が〈可能性〉を持っていることを知っているということ」と言ってしまえば、それは「意識があること」と何が違うの?
一旦、意識と言い換えて考えてみても面白い。
ジュリオ・トニーノの「意識の統合情報理論」によれば意識があるというのは、そこに情報の統合が“ある”ということだ。しかしこの統合というのは、スイッチのオン/オフのように単純なある/ないの区別ではないらしい。グラデーションや強弱があるようだ。理論の詳しい話は一旦脇にしても、とにかくそのような統合がどのような形であれ存在するのなら、やはりそこには統合を位置づける領域(domain)があるはずだ。
そのような「統合」が“ある”領域は、単純に脳や神経やシナプスが“ある”領域とは、また違うのではないか?まさにジュリオ・トニーノが言うように、脳の全体や一部を切り取って「ここに意識が“ある”」と言って示すことができない、そういうことなのではないか?
おそらく霊魂も同じく、身体全体や胸の一部を指さして「ここに霊魂が“ある”」と言えるようなシロモノではない。
2018年8月1日。面白い記事を読んだ。以下、講談社ビジネスの“人工知能を制作してわかった「人間の条件」”(2018.07.30)から引用。
>さて、頭脳と身体で世界を知ると、そこから知能は2つの方向の運動を展開します。自分自身を形成し維持する自己保持(ホメオスタシス)の方向、もう一方は自分自身を世界に投げ出す自己投与(アポトーシス)の方向です。生物はこの2つの衝動の間を行ったり来たりするのです。それが生物の存在の本質です。
人間の知能はみな、よく似ています。しかし、みな違っています。でも、現在の人工知能が決して手に入れられない能力があります。それは「問題を作る」能力です。現在のところ、人工知能が問題を立てることはできません。またその必要もないのです。人工知能はこの世界に根付いて生きていないのですから、危機に直面することがないのです。
>どんなに高速で思考しても、それは知的機能の実行であり、世界に根付くことではありません。先に挙げた言葉で言えば、世界に自分を投与する(アポトーシス)行動です。生物が世界に根付くということは、自分の中心に降りて行き、その中心において世界と自分を結ぶことです。
>物質は環境に溶けてしまいますが、生物の身体は環境と溶け合いながらもその形、機能、組織を維持します。細胞は常にホメオスタシスとアポトーシスを繰り返し入れ替わりながらも、全体を維持するのです。このような生物の持つ全体的恒常性こそ、知能が世界に根付く力の源であり、生物と物質を分けるものなのです。
これを「境界線」の話にしてはいけない気がする。つまり人工知能も外と内を分ける境界線、すなわち身体を持てば、そして自己保持(ホメオタシス)と自己投与(アポトーシス)機能として備えた組織を持てば、生物と呼べるのではないかという仮説。つまりロボット人間の可能性だ。しかしこれは、現象学的な見立てから生まれた発想だと思う。
まず世界が“ある”。そこに置かれた生命は、自己保持と自己投与を繰り返しながら、そこに生命として己を位置づける。先の記事で言うところの“世界に根付く”ということであり、“自分の中心に降りて行き、その中心において世界と自分を結ぶこと”というやつだ。こうして世界にやってきた生物は「世界」と「生命(私)」の「境界線」を持つ。
これは新存在論的には誤りだ。「世界」と「生命(私)」が存在論的にどのように関係し合っているかは、私たちが「世界」の中にあっては本質的に理解することができない。
しかし生命が「境界線」を持つことに疑いはない。しかし、それは世界の中にあってではない。「世界」と「生命(私)」を区別する境界線がまずあるのではない。生命が作りだすのは「世界そのもの」の「境界線」である。「世界」の「境界線」とは、その生命にとって“あるもの”が“ある”ことを可能にするための領域(domain)のことである。この領域そのものが「境界線」であり、生命が把握することができる「世界」である。
しかし逆パターン、まず「生命(私)」が“あり”、「生命(私)」があるから「世界」が“ある”というのも、言うことができない。これはマルクス・ガブリエルのいうところの構築主義的な発想だ。簡単に言えば「生命(私)」が「世界」を作った(作っている)、という発想だ。もしそうだとしたらまず「生命(私)」が置かれる領域(domain)はどこに存在するのか?世界がまだ“ない”のに?
生命が先か世界が先か、新実在論はこうした「卵が先か鶏が先か」的な二択を拒否する。あるいは苦し紛れに「同時に生まれる」と言ってみても、何も説明できていない。要するにそんなことは分からないしどうと言っても同じことだからだ。
問題なのは“あるもの”を“あらしめる”ということだ。“あるもの”が“ある”ということは、そこにそれを位置づける領域(domain)が“ある”ということだ。ではその領域はどこに“ある”?こうした問いは典型的な無限後退だ。あるいは簡単に超越的な、形而上学的な“ある”という力そのものに想像を伸ばしたくなる。
僕が思いついた〈可能性の可能性〉というアイデアも、こうした超越論的・形而上学的な概念に向かってしまいたくなる危険性をもっている。つまり、“あるもの”を“あらしめる”とはすなわち生命が持っている〈可能性の可能性〉のことであり、〈可能性の可能性〉がもたらされたのは“ある”より先であり外であり、よって超越的な〈可能性を可能たらしめる力〉である、と。こうしたことは考えても空想の域を出ないし、どう言ったところで分からないのだからどうとでも言える。
もう少し問題を狭めてみる。
1.人工知能が“世界に根付く”ことは本当に不可能なのか?
2.生命以外が〈可能性の可能性〉を得ることは不可能なのか?
1.について
そもそも「世界」は先に存在しない。人工知能が〈可能性の可能性〉を持ったとき、人工知能にとって自らを位置づける自らの「世界」を持つ。
→それは私たち生命が持つ「世界」とは違うかもしれない。
人間と植物。このふたつは同じく生物でありながら、だいぶ違う。
人工知能の「世界」が、植物と同じくらい私たち人間と同じだったら、それはお互いの〈可能性〉の中でお互いに干渉が可能である〈可能性〉がある。またそれは植物が私たちに示しているように、自らが〈可能性〉を持った存在であることを、私たちが把握できる〈可能性〉の範囲内で示してくれるだろう。
植物と同じくらい私たち人間と違うとしたら、それは彼らが持っている「世界」がどのようなものか私たちには良く分からないということだ。彼らも死ぬのが怖いのか、欲求があるのか、時間があるのか、境界線があるのか・・・。あくまで私たち人間の「世界」の中で、それが持つ〈可能性〉の中で推し量り想像ことしかできない。
しかし、それで十分なのだ。植物が生命か否かを私たちが判断する上で、「植物は世界に根付いているか」「世界の中でどのように自己を位置づけているか」について知る必要はないし、迷う必要もない。なぜなら植物は私たち人間がもつ「世界」の中で、その〈可能性の可能性〉の中で、植物たちも〈可能性の可能性〉を持った存在であることを示しているからだ。
さらに言うと、これは植物に限らず自分以外の生命の存在については、はっきり言って己の〈可能性〉内で想像するしか無い。自分以外の人間に対してもそうだ。
定義としての「生物」を無視して、あくまで存在論的に自分以外の実存的存在について想像する場合、それは完全に自分の〈可能性〉に依存する。
例えば石ころ。これ(モノ)には実存が無い、すなわち〈可能性の可能性〉を備えていないと、完全に否定することはできない。ひょっとしたら私には分からないだけで、石ころの「世界」があるのかもしれない。石ころは石ころの目で、感覚で、「世界」を感じているのかもしれない。
しかしそれは私たちには感じられないだけなのかもしれない。もしそうだとすると、私たちの方から〈可能性〉の輪を広げて感じ取ることも可能かもしれない。石ころに、風に、死体に、その〈可能性〉の〈可能性〉を―。それこそが、「霊魂」だ。
2.について
まず〈可能性の可能性〉は沸き起こってくる「現象」ではないだろう。私たち生きているものが自らを含み位置づけるdomain、私たちが「世界」と呼ぶものの中では、その中にあるもの全てに〈可能性〉が見て取れる。例えば私たちが犬の瞳を見つめている時犬もまた私を見ているだろう、私が私の「世界」の中で彼に見出している〈可能性〉を彼もまた彼の「世界」の中で私に感じているだろう、という感覚・想像。さらに、雨が降り地に水が溢れ土砂が崩れる一連の流れ、そこに何かしらの意図や意志を想像することすら私たちには可能だ。そこに見いだされる〈可能性〉が神や霊魂と呼ばれるものだ。
つまり自分以外の存在が〈可能性〉を持っている〈可能性〉=〈可能性の可能性〉は、正しく私たち自身がその〈可能性の可能性〉をもっている存在だからであり、悪く言えばその中に捕らえられているからである。(捕らえられている、とはそこから逃れられない、ということ。)
では話を生命以外のモノに戻そう。例えば人工知能が〈可能性の可能性〉を持った存在になり得るかという問題だ。上記の議論をもって、「それは、それを見つめる人間の〈可能性の可能性〉次第」という結論にして良いのだろうか。そう言ってしまえば、単なるチューリングテストの問題、映画『攻殻機動隊』に出てくる人形使いが自ら「私は生命だ」と言った時にそれを聞いた人間が「ああ、そうだな」「いや、そんなことない」のどちらを選ぶかというだけの話なのだろうか。ゼロ・サムで考えてしまうとそういう話になってしまうが、実際は程度問題だと思う。程度とは、その人工知能が私たちにどの程度〈可能性〉を示してくれるかということだ。
生物学的な定義や知識を一旦脇にして、壁を伝って垂れる雨水と、壁を伝って生える植物を眺めたとき、それらを純粋に現象として見た場合、両者に違いはない。物理的であろうが生物学的であろうがただ因果の説明の違いがあるだけで、ただ現象は現象である。しかし私たちが現象というスクリーンをめくりあげ、その存在が持っている〈可能性〉を感じられたとき、初めて私たちはそこに生命という特別な存在を感じ取る。一体どういうところからその〈可能性〉を感じ取るかは人それぞれだろう。壁を伝って生える植物の蔦の非幾何学的な生え模様、鬱蒼としげる葉、それらが作り出す景色、匂い、時間による変化。そのひとつひとつが、ただの水には感じられない「何か」を私たちに示す。それらは定義や条件といった客観的スケールで区別できるものではなく、あるいは明確な境界線を引いて「ある」「ない」を隔てることも難しい、全体的に見て感じることでもあれば一部デティールを見た時に気づくこともありえる、「何か」だ。その「何か」というのが、〈可能性〉だ。
繰り返すがゼロサムに考えれば水だって石だってそこに〈可能性〉を見出すことは可能だ。だが私たちの大半がそこに生命を見出しその感覚を共有するためには、その〈可能性〉を感じ取らせるものがより多く示されていた方が楽だろう。つまり〈可能性〉が多く示されていればいるほど(私たちがそこに〈可能性〉を多く見いだせば見いだすほど)私たちはそこに生命を感じ取る可能性が上がる。
(話が少し逸れるが、「魚には痛覚がある」とか「イルカは言語を持っている」とか、既に生命があることが常識的に共有されているもの=動物についてこうした発見が度々されるのは、それら動物の生命が私たち人間の生命とより質的に近い〈可能性〉を示す、示そうとする努力だろう。近代以降人間はこうした自分たち以外の生物の〈可能性〉を探る努力を惜しまない。)
このように考えれば、人工知能だって私たちに色々な〈可能性〉を示せば、私たちがそこに生命に近しい(あるいは等しい)存在を感じ取ることは全くもって可能だと思う。もちろん、技術的に可能かどうかは別問題だ。だがもし将来本当にドラえもんのようなロボットが私たちの前に現れたとき、私たちは彼に向かって「君は世界に根付いていないから君に生命はない」と言えるだろうか。私には絶対に言えない。
★私たちが私たち以外の存在に〈可能性〉を見出すこと、あるいは見出そうとすること、これは簡単に言ってしまえば「愛情」や「愛着」を持つ・抱くってことなんじゃないだろうか。しかしそれは単純にモノに抱く(例えばお気に入りの財布に抱くような)「愛情」や「愛着」とは違ってくるだろう。それを抱いている間は両種に大した違いは見えないだろうが、(ああ、美しい話になってヨカッタヨカッタ。)