SAKEの新たな扉が片方だけ開いた日
長い人生、初めて体験することはいろいろあっても、「世界初」の場に立ち会えることは、そうそう滅多にありません。これは2024年9月8日(日)に私が初めて飲んだ「800(ヤオ)」というお酒と、その造り手のお話です。
大麦麹の酒、蕎麦麹の酒、米麹の酒
この日、ワクワクしながら訪れたのは、東京・神保町の「PASSAGE bis! BOOKS & CAFE」という共同書店でした。
目的は、書籍「日本酒はおいしい!」の発売を記念したトークイベントに参加するため。書籍「日本酒はおいしい!」は、日本酒の醸造方法などの基礎知識はもちろん、歴史や味わい方、国内外の注目の酒蔵などの最新情報も網羅した、日本酒についてもっと知りたいと思った方におすすめの一冊です。
イベントのゲストは、この本のなかで何度も登場している「WAKAZE」の元杜氏であり、2024年4月に独立し、「LINNÉ(リンネ)」を立ち上げた今井翔也(@shoya_imai)さんです。
「WAKAZE」といえば、クラフトサケのパイオニア的存在でもある日本酒のスタートアップ企業。2018年に東京・三軒茶屋醸造所で「その他の醸造酒製造免許」を取得し、日本酒の製造技術をベースにしながら、柑橘やハーブ、スパイスなどの副原料を発酵過程で取り入れたボタニカルSAKEを発表しました。
今でこそ、全国各地にクラフトサケの醸造所が増え、日本酒蔵と並んでイベントにも参加するなど人気が高まっていますが、当時はまだクラフトサケという呼び名もなかったころ。日本酒の世界は、「WAKAZEの登場以前/以後」で大きく変わったと言っても過言ではないでしょう。
冒頭でお話した世界で初めてのお酒の飲み比べというのは、現在、ファントムブルワーとして活動している今井さんが新たに手掛けた「800(ヤオ)」シリーズ(大麦麹の酒、蕎麦麹の酒、米麹の酒)をいち早く味わえるというものでした。
自然のすべてをSAKEに取り込む
どうして、今井さんは麹に着目したお酒を造ろうとしたのでしょうか?
その理由を紐解く前に、まず、日本酒の造り方をおさらいし、今井さんのこれまでの歩みを振り返る必要があります。
日本酒とは、米麹、米、水を原料として発酵させて、こしたもの。米のでんぷんを麹菌の力で糖に分解し、その糖を酵母が食べてアルコールに変え、日本酒ができあがります。この糖化とアルコール発酵の過程が1つのタンクの中で同時に並行して行われるため、日本酒の発酵は「並行複発酵」と呼ばれます。
日本酒造りの製法は、発酵のスターターとなる酒母に、米麹、蒸した米、水を加えて造る段仕込み。米麹は他の米を溶かして糖に変える役割の米で、「掛米(かけまい)」と呼ばれ蒸米は、米麹に溶かされ、糖に変えられる側の米です。
日本酒の要素を【米麹】×【掛米】×【水】とするならば、今井さんがWAKAZE三軒茶屋醸造所時代に行ったのは、【米麹】×【掛米+副原料】×【水】。掛米に副原料を加え、一緒に発酵を進めることで新たな香りや味わいをもたらしました。
「それまでの日本酒が水墨画なら、副原料を加えて造るクラフトサケは水彩画」と、今井さんはその違いを絵画に例えて話します。
現在商品化されているクラフトサケの副原料といえば、フルーツやハーブ、お茶などの植物由来のものを浮かべますが、今井さんのなかでは、この時すでに植物だけでなく、動物性食品や鉱物(塩やミネラル)をもSAKEの副原料として取り込むことを構想として持っていたそうです。
「植物/動物/鉱物」という区分は、18世紀のスウェーデンの博物学者で生物学名の二名法を考案したカール・フォン・リンネ(Carl von Linné)が提唱した「自然三界」と呼ばれる分類体系です。今井さんの新会社名は、カール・フォン・リンネの名前に由来します。
それまでの常識を逆転させる「硬水醸造法」
自然界をまるごとSAKEに取り込む。そんな広大なフィールドを前にして、今井さんはフランスに渡ります。
それは、「日本酒を世界酒に」という大きな目標を掲げるWAKAZEが、2019年にフランスに子会社を立ち上げ、パリ近郊に設立した醸造所「KURA GRAND PARIS(クラ・グラン・パリ)」で現地醸造を始めるためでした。WAKAZEがフランスで造るのは、南仏カマルグ産の米とパリ地域の水を使った“Made in France”のSAKEです。
フランスでの酒造りの課題は「水」でした。輸送性があって、選択の幅が広い米に対し、水は基本的にその土地のものを使わなければなりません。酒蔵が水の豊かな土地に多いのはそのためです。
今でこそ日本全国でさまざまな場所で日本酒が造られていますが、江戸時代までは、酒造りが盛んだったのは、硬水が豊かな場所でした。
水の硬度とは、水に含まれるカルシウムとマグネシウムの量を表す数値のこと。硬度の高い水が「硬水」、低い水が「軟水」です。硬水の銘醸地の代表格といえば、兵庫県・灘ですが、当時は軟水で造る酒は灘の酒に劣るといわれていました。
その常識を逆転させたのが、広島出身の醸造家、三浦仙三郎氏が生み出した「軟水醸造法」です。軟水の地域である広島でも、おいしい日本酒を作ろうとつくろうと開発された手法で、これが全国に広まり、現在の酒造りの基盤となっています。
話はフランスに戻って、フランスの水はミネラル分を豊富に含んだ超硬水。三浦仙三郎氏が軟水でやったのと同じように、硬水に合わせた酒造りの技術「硬水醸造法」をまとめることができれば、SAKEを醸せる場所が世界中で広がります。
醸造家にとっての道具は「麹」
水の制約から自由になった今井さんにとって、世界中どこでもSAKEを造れる世界に近づくための次の課題は「麹」です。ようやく、現在のLINNÉの活動と「800(ヤオ)」シリーズ」の話に繋がります。
日本酒の構成要素、【米麹】×【掛米】×【水】のなかで、三軒茶屋醸造所時代には、掛米に副原料を追加してSAKEに彩りを与え、クラフトサケの可能性を示しました。
フランス・KURA GRAND PARIS時代には、「硬水醸造法」を確立して、世界中でSAKEを醸せる可能性を示しました。
残る要素は「麹」です。
「麹菌を使って、米を溶かし、もっと小さな要素に切り分けていくとき、麹菌は生き物ではあるのだけれど、もう自分の身体の一部、身体が拡張している感覚になるんです。麹菌は、醸造家にとって大事な道具であり相棒。例えるなら、宮大工にとっての鑿(のみ)や鉋(かんな)のようなものです」と、今井さんは話します。
機械化が進む大工のなかでも、神社仏閣の建築や補修に携わる宮大工は、未だに100を超える道具を自在に使いこなします。
「宮大工の使う道具が多種に渡るのは、神社仏閣特有の複雑な曲線を生み出すため。歴史を超えてあり続ける神社や寺を建てるには、想像以上に繊細な仕上げや細工が必要です。醸造家も、自分の考えたイメージのお酒を具現化するために、道具をたくさん持っていたほうがよいと考えました」
醸造家にとって、麹は道具。そう考えた時、道具の少なさに気づきます。黄麹、白麹、黒麹。麹菌の種類はいくつかあっても、日本酒造りに使うのは、米に繁殖させた「米麹」だけ。今井さんが、「800(ヤオ)」シリーズで大麦や蕎麦など、米以外の麹を使うのは、酒造りの道具を増やす新たな試みだったのです。
それまでの日本酒が水墨画、副原料を加えたクラフトサケが水彩画としたら、さまざまな麹を使って造る「800(ヤオ)」シリーズは、筆以外の道具を使って描く絵画といえるでしょう。
「800」シリーズは、“チルい酒”
「異を醸す酒」をコンセプトに据えた「800(ヤオ)」シリーズの名前は、八百万の神などの「八百(=物事の数の多いこと)」に由来します。
第一弾のラインナップは、大麦麹、蕎麦麹、米麹、薩摩芋麹、それぞれの麹で造ったお酒です。(薩摩芋麹のお酒は2024年11月に完成したものなので、この日のイベントでは試飲はありませんでした)
「800 大麦」
「800 大麦」は、福島県南相馬市のクラフトサケ「haccoba(ハッコウバ)」で、福島の米と、埼玉県川越のクラフトビール「COEDO BREWERY」から譲り受けたビール大麦を麹にして、醸したもの。
ビールの後味に似た香ばしさと、黒麹由来の甘酸っぱい酸味! 熟成させると、もっと旨味が伸びそうな予感がします。
「800 蕎麦」
「800 蕎麦」は、新潟県柏崎市の阿部酒造で、新潟の米とともに、新潟・小千谷で有機栽培を営む「イチカラ畑」の蕎麦の実を使用し、醸したもの。
まるで蕎麦湯のようなやわらかいとろみ! お燗にして飲みたいお酒です。
「800 米」
「800 米」は、米麹の酒、つまり清酒。「800 蕎麦」と同じく阿部酒造で、米麹に「春陽」という珍しい品種を使って白麹だけで仕上げ、阿部酒造の粕取焼酎を使って、柱焼酎仕込で醸したもの。
清酒だけれど、既存の味わいからはみ出るスッキリとしたおいしさ! 米麹もまだまだ可能性がありますね。
もう、どれもびっくりですよ! わかんない! だって、今まで飲んだことのないお酒なのだから。
言葉にするのがとてもとても難しいのですが、全体の印象は、どれもゆっくり飲みたいお酒だなと思いました。さまざまな副原料を使ったクラフトサケが、ハッと目が覚めるお酒とすれば、「800」シリーズは、“チルい酒”。これが磨いてない穀物麹による効果なのかもしれません。
「麹」があれば、世界中でSAKEが造れる
でも、どうして、クラフトサケの代名詞である副原料を、今回は使わなかったのでしょうか。
「クラフトサケでは、掛米側の新しい扉を開きました。これを開けたまま、麹側の新しい扉も開けちゃうと、『未知』×『未知』で制御できなくなります。だから、まずは麹の可能性を追求するために、掛米側の扉を一旦閉じて、麹側の扉だけを開けたんです」
米以外の麹を使うことで新たなSAKEの定義に挑戦するLINNÉの酒造り。その先には米を一切用いずに造る「クロスボタニカル」というフェーズを見据えます。
「溶かす側の【米麹】と溶かされる側の【掛米】、この両方の扉が開放されたら、麹菌さえあれば、世界中でSAKEが造れる時代がやってきます。でも、やりたい表現があったとしても、それに必要な技術がなければ実現はしません。今後、SAKEの造り手が増えた時のために、新たな醸造技術の可能性を、今示しておく必要があると思いました。多様な麹による酒造りは、その道のりの中の通過点なんです」
2024年の日本酒界隈のできごとといえば、日本酒をはじめとした「伝統的酒造り」がユネスコ無形文化遺産に登録されたことははずせません。
登録を伝えるニュースでは「伝統的酒造り」と省略されていますが、正式には「日本の麹菌を使った酒造りの伝統的な知識と技術(Traditional knowledge and skills of sake-making with koji mold in Japan)」のこと。日本の風土と深く結びつきながら発展してきた麹菌を使った酒造りが世界的に評価されたことは、大変喜ばしいことです。
「伝統的酒造り」での麹の再評価と、今井さんが取り組む麹を解放する新しい酒造りのチャレンジ。2024年は、日本の酒造りにとって歴史に残る一年だったと思います。
(2024/12/26 追記)
今井さんが2024年11月からチャレンジしていたクラウドファンディングは、目標額をはるかに超える支援金額合計11,236,498円で終了。すごい!
LINNÉのこれからの活動は、Podcast「Voice of LINNÉ」でお話しているので、気になる方はこちらも要チェックです。