握っていたけど、引き留められなかった 隣にいたけど、抱きしめられなかったんだ。
The Velvet Undergroundに「Pale Blue Eyes」という曲がある。私はこの曲がとても好きだ。酩酊しながら聴くと思わず泣いてしまいそうになる。空気が透き通っていて青みが強い午後に聴くと思わず泣いてしまいそうになる。というか何度か泣いた事がある。
この曲に「I've had but couldn't keep I've had but couldn't keep」と2回繰り返すところがある。そこが切なくて私はとても好きな部分なのだが、この詩の和訳を私は多少の強引さで「握っていたけど、引き留められなかった 隣にいたけど、抱きしめられなかったんだ」としてしまう。意訳(というか誤訳)である。が、どうにもこう歌っていたらと願わずにいはいられない。
夏の暑さは惰性を生むが、秋の寒さは鬱を生む。ひたすらに続く労働地獄は躁と鬱のサイクルを速める。その中でぶっ壊れたブレーキは飲酒という目に見える形で具現化する。一滴でも多くの酒で夜を染め上げたいという願いは、笑いながら自傷行為を促す狂ったようなタイムラインと完璧なシンクロを見せる。
台本作業は全くの中断を見せている。ともすれば私のこの陰鬱で乱高下する心持が少しでも反映されてしまったら、それは酷く不誠実なものである。まずは落ち着くこと。深呼吸すること。明後日には休日が訪れるということ。
住民票移動のタイミングで往復約2時間かけて実家の方で投票しなくてはいけなかった。朝から夕方まで労働、夜には作業がある。その少しの合間のタイミングで投票に向かったらかような事が判明する。正直もう投票しなくていいかなと思った。すげえ思った。が、モヤモヤも残る。結局、モヤモヤする方が嫌なので仕方なく言った。そう仕方なく。その時の私は一票の権利という大義名分も、政治へコミットしていく素晴らしい姿勢も、考えも、想いも、全くなく、ただ自分の「モヤモヤ」だけが投票に行く全てであった。「モヤモヤ」とは「仕方なく」と言い換えてもかまわない。
突如の往復約2時間とはそーいうもんである。それを前にしては気力も削がれる。毎度の様に投票率の低さが話題になるが、今回あやうく投票を諦めそうになった私は、単純にめんどくさいという理由でも、なんだかよく分からないからという理由でも、なんだか分かる様な気がする。なんだか分かる様な気がするのだ。
往復2時間かけて投票に行った経験で唯一得たものとは「なんだかよく分かる気がする」という誰に充てる事もない、言うなれば、タイムラインの外部に広がる無数で複雑な世界への共感だった。この虚無的な共感だけが帰りの電車で唯一私の胸の内を温めてくれたのだ。
タイムラインの外部に想いを馳せる事は非常に難しい。私の好きなものと、私がこれから想うだろう事こと、私が想っている事の賛同と、その賛同をより強くするための適切な否定が、十分な塩梅で配置されるタイムラインを世界の全てだと想う事は容易い。しかしともすればそれはものすごい狭い世界なのだ。世界のたった一握りの一握りなのだ。
私の知らない暴力があり、私の知らない環境があり、私の知らない哀しみがあり、私の知らない障害がある。もちろん、私の知らない優しさも。そのようなものが雑多にそしてカオスティクに渦巻いているのが世界なのだ。
人は時としてそんな世界につと旅立っていく。貴方も、貴方の大切な人も。陰謀論者として旅立つかもしれない、新しい趣向を求めて旅立つかもしれない、あんなに情熱を捧げていた演劇をやめて旅立つかもしれない。それはそれで摂理なのだ。正しいと間違いの間で揺れはするが、正しいと間違いで断罪する事は出来ない類のものなのだ。
もちろん、片道切符ではない。けれども、大抵は戻ってこない。過去へ私たちが自由に戻れない様に。もう二度と素晴らしく楽しかった昨日が戻って来ない様に。
「I've had but couldn't keep I've had but couldn't keep」と歌うルーリードの声が優しくも悲しく聴こえる。
「握っていたけど、引き留められなかった 隣にいたけど、抱きしめられなかったんだ」
いつものように朝は目玉焼きを作って、スープと一緒に飲もう。それから古いレコードを聴こう。昔やってクリア出来なかったゲームを引っ張りだそう。もう着ないワイシャツにアイロンをかけよう。部屋の掃除をしよう。二人で決めた当番の通りに。カーテンの揺れを確かめながら昼寝をしよう。夕暮れは赤色に染まるか、青色に染まるか、2人で賭けよう。それから暗くなる前に、世界の終わりがやってくる。その瞬間、私はたった1人。それはもう答えようの無い孤独。冷えたぬくもりも感じられずに。「I've had but couldn't keep I've had but couldn't keep」「握っていたけど、引き留められなかった 隣にいたけど、抱きしめられなかったんだ」