排気口の NOSTALGIC第二回公演「 追憶は、秋の夕暮れ。」に台本提供したよの巻。

 タイトルの通りNOSTALGICと言う劇団の第二回公演「 追憶は、秋の夕暮れ。」に台本を提供した。新作ではない。WS台本を3本。WS台本とは排気口WSで過去に使用した台本を指す。内訳は「みなみ、いずこへ」「こころのじゅんびの数十分前」「その後にちょうどいい涙というものがあって」の3本だ。

 WS台本と便宜上記しているが私はWS毎に新作短篇を書いている。上記3本の台本もその時のもの。加筆修正も最小限にしてそのまま公演台本として提供した。

 WSで使用した台本が殆ど手直しせずに公演台本として耐えられる例は珍しいのではないだろうか。それは私がWS台本でも手を抜いてない証拠だ。今では排気口WSで私が新作を書く事は平常みたいな感もあるが、人知れず辛い台本作業を経ている。それに加えて新作台本を元に出来上がった作品を全グループ講評もする。それら全部1人でやっている。WSの性質上、負担の偏りは仕様がないが、せめて、WS終わりの飲み会のお金ぐらいはタダになって欲しいものだ。

 と、愚痴を書いてしまったが、話を戻すと、この3本の台本は少しばかり思い入れがある。

 「その後にちょうどいい涙というものがあって」は参加した名前のない演劇祭で使用した台本だ。名前のない演劇祭とは約12時間稽古の別称だ。あの頃は大変過ぎてよく身体を壊さなかったと思う。でもあんなに大変だったのに同時期の排気口新作公演は初日中止になった。排気口4人で仲良くノーギャラ&デカめの持ち出しをして、もう笑うしかなかった。泣こうかなとも思ったが他の3人が笑っていたのでこれは喜劇なんだと思った。この時の痛手が今の金欠地獄もとい借金地獄の始まりだ。わー!!

 この時やった全ての班の稽古が印象深い。今でも排気口の作品やWSに参加してくれている方々もいる。唯一の悔いは全体打ち上げのタイミングを逃していまった事だ。でも私は諦めていない。このnoteを読んでいる名前のないの皆さん。誰か幹事で企画してください。他力本願でごめんなさい。でも12時間稽古した身として許して下さい。

 「こころのじゅんびの数十分前」は今年の初夏、高田馬場はときわ座さんに呼ばれてWSをした時にみんなで作った。この時は2班に分かれてそれぞれ作品を作ったのだが、ラストQueen 「 Somebody To Love」が流れた時に、この台本の1つの完成形を観た感じがした。2班ともくだらなくもリリカルな希望に溢れていた。哀しい事が起こっているのに涙を流しながら笑うようなそんな切実さがあった。終わって、ときわ座に一陣の清風が吹きあがった時、参加者全員の満足した顔が印象深い。その後の打ち上げはときわ座と初夏のムードが混ざり合った素晴らしい酒宴で今年の夏のとても大切な想い出だ。

 「みなみ、いずこへ」はコロナ禍で書いた台本だ。私なりにコロナ禍における全ての役者へのエールのつもりで書いたのだが、そうは余り受け取られないらしい。この台本で中心的な人物であるみなみとは勿論、浜辺美波ちゃんな訳であるが、もとい役者の事でもある。仮タイトルは「演じる人はどこへ?」だった。公演は中止になり、稽古として集まる事も難しかったあの頃。演じる場所が無くなってしまった気がした。そんな最中に個人WSをやった。その時に書いた台本が「みなみ、いずこへ」だ。参加者みんなの満足そうな疲れた顔を今でも覚えている。今では考えられないがあの時のWSは発表を各班2回ずつやっていた。

 私は滅多に台本提供をしない。私の台本は私が演出するのが1番だからだ。時々、意味の分からない台詞とくだらない台詞で埋め尽くされている自分の台本がほとほと便所の落書きに見える時もあるが、、、。

 しかし、そんな便所の落書きが心をそっと揺さぶる時がある。言葉に出来なかった気持ちにそっと言葉を充ててくれる時がある。

 この世界の全てに意味があったら私たち息が詰まって窒息してしまう。くだらなさの中にも美しいものがある。意味の分からないものに本当がある。

 死ぬとか生きるとかも重いものだと思わされてる。でも生きるも死ぬも別に軽い事なのだ。そんな想いでふっと楽になる瞬間がある。

 真面目でも不真面目でもダメダメでも利口でも私たちは生きていけるのだ。

 誰かのくだらない言葉にもしかしたら切実さが宿っているかもしれない。
自分にとっては酷く軽薄な言葉に相手の祈りが込められているかもしれない。そんな事、本当は考えなくてもいいのかもしれない。

 「かもしれない」の連続だ生活は。貴方といるけど本当は一人の方がいいのかもしれない。でもやっぱり二人でいる方がいいのかもしれない。そんな具合に。

 演劇は不要不急かもしれない。でもそうじゃないかもしれない。みたいにね。

 今回、私の台本を演出するのは竹之内勇輝氏(以下、竹ノ内くん)何を隠そうNOSTALGICの主宰だ。演出もやっている。そして排気口の作品『時に想像しあった人たち』に出演してくれた役者だ。素晴らしい役者だ。

 滅多に台本提供しない私が今回提供依頼を了解したのも竹ノ内くんと一緒に排気口で作品を作ったからというのが1番の理由だ。

エキチカ 遠慮しちゃった、それに外の自販機、釣銭切れてて
     小銭じゃないと買えないし
おじや  俺、両替しようか?
エキチカ え?
おじや  俺には遠慮しないでよ
エキチカ (笑って)なにそれ
おじや  俺、小銭めっちゃ持ってるから
エキチカ ・・・じゃあ、千円両替できる?
おじや  うん出来る!!
エキチカ ありがと
おじや  ・・・二人っきりでようやく話せた
エキチカ え?
おじや  あのさ、勝手に今日を特別な日にしていい?
エキチカ ・・・
おじや  勝手に特別な両替にしていい?
     エクストラデイエクスチェンジ・・・特別な日の両替みたいな
     エキチカさんには
     どーでもいい事かもしれないけどずっとこの日覚えてていい?
エキチカ ・・・エクストラって余計なとかって意味じゃなかった?
おじや  え、そうだっけ?
エキチカ (笑って)そしたら今度、水曜3限の英語
     レポート手伝ってあげよっか?
おじや  マジ?
エキチカ いいよ!!暇だったら
おじや  (噛み締めて)やったあ・・・
     俺、これからすげえレポートためるわ!!

 「時に想像しあった人たち」でこんなやりとりを書いた。勿論、おじやが竹ノ内くんだ。エキチカという好きな女の子とようやく話す場面。役名の訳分からなさには目を瞑って欲しい。

 「エキチカさんにはどーでもいい事かもしれないけどずっとこの日覚えてていい?」こんな頑なさを私は信じている。きっと竹ノ内くんもそうだと思う。

 台本は紆余曲折を経る。おじやとエキチカにも多くの時間が流れる。そして2人の最後の会話はこんな風になる。

エキチカ 私も行こうかな
おじや  ・・・
エキチカ じゃあね
おじや  ・・・うん
エキチカ おじや君、結局一回もレポートためなかったね
おじや  ・・・・
エキチカ じゃあね

 「おじや君、結局一回もレポートためなかったね」という台詞を書いた台本を渡した時に「なんであんな喜んでレポートためるって言ってたのに、こんな台詞なんですか?!」と竹ノ内くんは言わなかった。言うかなと少しは思ったけどやっぱり言わなかった。きっと同じ事を信じていたんだと思う。

 何を信じていたのかは是非とも NOSTALGIC 第二回公演「 追憶は、秋の夕暮れ。」を観て確かめて欲しい。

 全ての公演関係者皆さんの穏やかさと健康を祈って。公演の成功も祈って。

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