三浦瑠麗VS紀藤正樹でわかった「旧統一教会問題は人権問題ではない」可能性
いろんな界隈の人から怒られそうだけど、自分の足りない頭なりに考えた結果、旧統一教会を批判しまくってるみなさんにとって「旧統一教会問題は、人権問題ではない」ことがわかりました。本人たちに確認取ったわけではないので、あくまで仮説です。
旧統一教会をめぐる三浦瑠麗さんの発言が、一部界隈の怒りを買った。
三浦さんはこう発言し、旧統一教会問題についてはあくまで信者の各家庭における虐待事件だとする自身の認識を示した。要は虐待事件という一般的な「人権問題」じゃないか、ということだ。
そのうえで、以下のように言葉を続けた。
「(献金で資産を失ったって)競馬でスったって同じ」
これには大きな怒りの声が寄せられた。記事中でも取り上げられている声のほかに、わたしが確認したケースでは「こんなこと言っちゃっていいの?」と完全なる失言として、この発言を問題発言とする人もいた。しかし、誰も説得力をもった具体的反論は行っていないにもかかわらず、三浦瑠麗さんが道徳のもとに袋叩きにされるさまは、さながら異端審問のような空気ですらあった。
一応、その典型ともいえる批判記事も見つけてしまったので、正直、読む価値もないのだが、一応、取り上げておこう。
内容の薄さのわりに「お壺ね様」「壺サーの姫」など、良識を疑うような中傷ワードは精力的に並ぶ記事で頭が痛くなる。
それはともかく、三浦さんの発言に対して筆者の適菜収さんの指摘はただ一言「意味不明」であった。何が意味不明なのかも、何がおかしいのかも結局なんら具体的な反論もせず「何言ってるかわかりませぇーんww」と言っているだけのこの記事のほうが意味不明だとすら感じる。
実際のところ、言いたいのは「三浦さんは自民党べったりだから、どうせいつもみたいに政局問題に矮小化してるんでしょ」みたいなことだろう。三浦さんが議論を政局に持ち込みがちというのは今回の発言でもわりとその面がなくもないのだが、それひとつで意見すべてに聞く耳持たないというのが正しい態度とはいえないのだろう。
要は是々非々ではなく「こいつが言っていることなんて、聞く価値なし」という先入観のみでモノを語っているのだ。三浦さんにあまり好感を持っていない自分でも、適菜さんの無内容な反論こそ「聞いて損した」という感想なのだが。
いよいよ本命・紀藤正樹弁護士登場
そして、ついに旧統一教会問題では、そのリーダーとして追求姿勢を見せている人物までもこの発言に反論したのである。
さすがに紀藤正樹弁護士は品がいいらしく、あくまで自身の認識と三浦さんの認識の違いをきちんと明らかにして、節度をもって反論を行っている。
だが、正直、わたしはこの紀藤さんの反論にガッカリした。というか、失言というなら、よほどこちらのほうが「失言」に近い。たぶん、三浦さんもさすがに「えっ? 紀藤さん、それ言っちゃって大丈夫?」と驚いたのではないか。ツイッター界隈の反応をみるかぎり多くの人がこの会話で明らかになった両者のスタンスの違いを理解できていないと思うので、ここを整理しておこう。
三浦瑠麗「競馬でスったって同じ」は何が〝同じ〟なのか
そもそも多くの人々が、三浦さんの発言の意図を正確に理解できていないと思う。ここで三浦さんは何を「同じ」と言っているのか。ここについて、彼女と批判者の間に対象の〝ズレ〟があるのだ。
三浦さんは発言の冒頭でも明らかにしているとおり、この問題をあえて社会問題にするなら・・・という立場から「虐待被害者の人権問題」としてとらえている。言いかえると「社会は虐待被害者を救えているのか」である。つまり、経緯ではなく結果に注目しているのである。
虐待はその具体的な内容は異なるが、その具体的な虐待内容ひとつひとつにこだわっていても仕方ないだろう、という立場である。
簡単にいえば子どもを殴れば「虐待」という場合に、殴った理由がそんなに重要だろうか、と言っているのである。
殴る理由が「宗教の戒律」であろうが、「ママ友の洗脳」であろうが、「親の精神状態」であろうが、子どもを救うことができるのは「子どもを殴らせない」「殴られている子を助ける」という社会の強い意志であり、傷ついた虐待サバイバーを救うのも社会の意志でしかない、ということだ。
つまり、三浦さんが言っているのは「虐待被害者について人権救済が遅れているというなら、旧統一教会のみにこだわらず全体の枠組みで語れよ」という話。これは人権問題の文脈ならば決して意味不明な話ではない。三浦さんの言葉を借りれば、こういうことだ。
故・小室直樹さんは『痛快!憲法学』のなかで、執筆当時世間でさかんに用いられた「子供の人権」という言葉を痛烈に批判した。それは人権とは「すべての人間に平等にあるもの」という当たり前の大前提を無視した言葉だと考えたからだ。人権が特定の属性のみに特別に付与されることは、その言葉の意味からしてあり得ない。仮に子供にのみ与えられた権利を「子供の人権」というのだとすれば、それは人権ではなく「特権」だということだ。
今回の三浦さんの発言は、明らかにこの考え方のうえに立っている。「なぜ虐待の人権の話を土台にして語っているのに、旧統一教会のことばっかり言ってるの?」という話だ。これはべつにほかの虐待事件が目立って失われているわけでもないのだから、当然の指摘に思える。そうでないなら、なぜパチンコに夢中になった親が真夏の車中に我が子を置いて殺す(殺しかける)事件が今も社会問題化しているのだ。
紀藤さんらは旧統一教会問題を「人権」と切り離してしまった
一方で、この意見に疑問をぶつけている人たちは、三浦さんの「同じ」という言葉の対象をどこに置いているか。それは「経緯」である。
虐待被害者の苦境という結果ではなく、どうして家庭崩壊が起きたのかに着目している。そのうえで「それが旧統一教会(あるいは新興宗教)の信仰を通じて虐待が起きたのだから、けしからん」と言っているのである。これは紀藤さんも同じ。紀藤さんは「第三者の関与」を問題視しているからである。
そもそも「第三者の関与」という言葉は、かなり曖昧な表現ではある。広義の関与ということであれば、競馬だってJRAはCMをTVでバンバン打っているし、競馬番組もある。競馬ファンコミュニティだってあれば、競馬を身近にしようという家族向けの競馬場開放なども行っている。
ここに「競馬にお金を使わせよう」という第三者の関与がないなら、なんのためにそんなことをやっているのだろうか。
もちろん、JRAは人の家族を崩壊させようという邪悪な意図はないだろうし、競馬ファンから「金をしぼれるだけしぼってやろう」なんて邪悪な意図はないだろう(旧統一教会にそういう意図があるかどうかは、報道を通じてしかこの問題を知らないわたしにはわからない)。
この差異から明らかになることは、紀藤さんらは「(虐待について)道徳に反した不正な関与」の有無を中心的な問題としていることが浮かび上がる。ここからは仮にこれを前提として、論を進めていこう。
この前提のもとで、紀藤さんらは何をミスった(とわたしが思う)のかというと、三浦さんの意見を完全否定してしまったことだ。べつに紀藤さんらの意見も、三浦さんの指摘も両立し得るんだから、いちいち否定までする必要はなかったのに、それをしてしまった。そこについて失言に近い、とわたしは言っている。
要は旧統一教会問題から、人権問題を切り離したのだ。今、彼らが必死に問題としているのは、「虐待被害者の救済」の問題ではない。人権問題ではない、と確定させてしまったのだ。
だって、そうだろう。彼らは三浦さんの発言を失言扱いし「意味不明」となじり、躍起になって叩いたのだから。これは「人権問題」という広い解釈から問うことが許される問題ではなくなったのだ(今回三浦さんに石を投げた人たちにとっては)。
今更「いや、三浦さんの言うことも別の側面としては一理はあるんですけど、わたしたちは経緯についても大きな問題があると思っているんですよ」なんて軌道修正は許されない。やるなら、三浦さんにきちんと謝罪するのが先だろう。彼女にひとりの人間としての人格を認めているならば。
つまり、結論として紀藤さんらの考える「旧統一教会問題」とは、あくまで「民事・刑事トラブル」なのである。それがあまりに規模が大きい、あるいは深刻だと紀藤さんらが認識しているから、法による介入を求めている。つまり、基本的には法律トラブルの問題なんじゃないかという乙武さんの認識は、紀藤さんらの意見を代弁していたものと考えて差し支えなさそうだ。
実際、当事者の三浦さんも同様の解釈をして、反論している。
いや、まぁ、三浦さんも三浦さんで「いや、民事刑事での追求も法整備の検討も、救済策も全部やればいいんじゃないの?」だとは思うんで、この人もこの人で凝り固まってるんだけど。
それはともかく、三浦さんを批判していた人たちが、乙武さんより過激なのは「被害者の人権なんて話はするな!」という謎の意志である。いったいなぜそこにそんなにこだわるのか、誰が得するのかはわからないが、まぁ、少なくとも統一教会問題を天下を揺るがす大事件として特別視して、注目を維持したい人たちは得するんだろう。
具体的な旧統一教会の被害者も、彼ら〝だけ〟は救われるかもしれない。まぁ、それでも救われないよりはマシだし、旧統一教会の被害者の方たちはこの事実に気づいたとしても「自分たちだけが助かった」などとべつに引け目を感じることはない。救われるべき人を救うのは政治の責任であり、あなたたちはその網の目から落っこちてしまっていただけなのだから、むしろ今までそれでヤケになったりせず、よく我慢してくれましたね。ありがとう。
ただわたしからすれば、この問題に三浦さんの視点も取り込んでいれば、もっと本質的な人権救済の話にまで話が進んでいたのかもしれないのに、残念である。立憲主義国家の議論としては、お粗末さを感じる結論とも感じるが、所詮、日本戦後の「立憲主義」など、その程度のものから仕方ないのかもしれない