炭酸の泡の向こう
炭酸の泡の向こうに、昭和レトロな少年時代の夏がある。
父も母も若く、祖母も元気だった。
店の前には大きな欅があった。
樹の下には、背が看板の赤い長椅子があった。
集落を横切る幅4メートル程度の通りに面していて、畑仕事終わりの男たちの溜まり場だった。
出窓のような場所があって、たばこなどはそこで売る。
お姉さんは時々そこにいた。
出窓の横から大きな引き戸が4枚ほどあって、それが店の入り口だった。
普段は閉まっていて、入るには、ガラガラとひいて、
「くださーい。」
と大きな声をかけるのが習いだった。
泥棒に間違われてしまうといけない。
引き戸のレールは、一段高い敷居になっていて、そこを踏むのも、いけない、と母に教わった。
なので、用心深く、必ず跨ぐ。
店内は薄暗い。
土間に商品棚が数列、並んでいた。
見上げれば、裸の黒い梁が渡っている。
奥に、開けたままの裏口が明るく見えた。
裏口の手前に一段上がった座敷があって、普段はそこでおばあさんが店番をしていた。
小さくて背中が丸い。
しかし、往々にして誰もいなかった。
そういうときは、くださーい、という声を聞いたおかみさんが、裏口の先にある母屋からパタパタやってくる。
くださーい、を数度繰り返さなければならないこともよくあった。
おかみさんは、いつもちょっと不機嫌そうで苦手だった。
母も同様で、あるいはぼく以上に苦手らしく、
「行ってきてくれない?」
と、ちょいちょいお使いを頼まれた。
頼られるのは嬉しかったが、お店へ向かう気分は大抵、重かった。
だから、出窓にお姉さんが見えたときは、重しが取れて、胸に花が咲いたような気持になった。
座敷におばあさんがいたときも、ややほっとした。
祖母が遊びに来た日、たばこ、を買いに行ったときの記憶がある。
「〇□△、だよ。間違っちゃやだよ。」
と言われたが、店に着いた時には忘れていて、ちょうど店番をしていたお姉さんに助けてもらった。
「うーん。なんか緑っぽいやつ。」
買って帰ったら、正解だったので、余程のメジャー品なんだな、と、わかば、という銘柄を覚えた。
サイダーは普段、あまり飲ませてもらえなかったが、祖母が来ると飲めた。
夕涼みの祖母の冷酒に、サイダーでご相伴した。
濡れた手をエプロンで拭いて、母も混ざった。
祖父の墓参りに行く途中、道端で見かけた花を、
「こんなところで咲いて、かわいそうだから持っていきましょう。」
と言って手折る祖母を、足を止めて待ったのは、いつだったろうか?
祖父の墓は山の中にある。
手折る方がかわいそうじゃないか?と思ったが、祖母は、そこで咲いているより、祖父の墓に供えられた方が幸せ、と普通にそう思っているらしかった。
サイダーの空き瓶にその一輪をさした。
店の前の欅の木陰。
畑仕事を終えた男たちが、赤いベンチの周りでにぎやかに談笑していた。
欅から蝉の声が降ってくる。
お姉さんも加わっていた。
逆さにしたビールケースにビール瓶がいくつも空いていた。
蒸した空気にアルコールの匂いが混じっていた。
僕たちは、友達数人で、汗にまみれた顔を日焼けで真っ赤にしていたと思う。
大人たちが、サイダーをご馳走してくれた。
リーダーっぽい男の簡単な指図で店に消えたお姉さんは、オレンジのエプロンの胸にサイダーを抱えて戻ってきた。
冷えて水滴に濡れた瓶を、一本一本、男に渡す。
男は咥えたばこをしたまま、栓抜きでシュッシュと栓をぬいて、僕たちひとりひとりに渡してくれた。
ふたりの共同作業が続いた。
「あいよ。」
両手で受け取った瓶は、うっかりすると滑って落してしまいそうだ。
一日の疲れを癒しながら談笑する大人たちの横で僕たちは、ラッパ飲みした。
その日はタイミングよくお姉さんが店番をしていたので、母の声は明るかった。
帰り道、
「お姉さん、お嫁に行くんだって。よかったね。」
と母が、仕入れたばかりの情報を教えてくれた。
平成のある日、冷蔵庫を開けると、上段にジュースのミニ缶がズラリと入っていた。
炭酸飲料業界の競争についてほとんど知らないが、激しそうなのは感じる。
様々なフレーバーの競合があるし、炭酸に限らない果汁やお茶や天然水など他のカテゴリーとの競争もある。コンビニ、自動販売機、飲食店など、それぞれ流通での競争もあるだろう。
いつの間にか、サイダーは、私の中では影が薄くなっていた。
古い、思い出の飲み物、になっていた。
そうだったので、ミニ缶の集合の中にサイダーを見つけたときは、おや?と思った。
妻に言うと、
「何、言ってんの。ずっと人気じゃん。」
と返された。
娘の一番人気だという。
娘がまだ250mlサイズはとても飲みきれない頃だったと思う。
その娘が生んだ孫は、まだ、炭酸は飲んではいけない。
最近、果汁ジュースを少し舐めるようになった。
いつか、サイダーで晩酌に付き合ってもらおう。
炭酸の泡の向こう。
昭和と平成、令和、それぞれがある。
―了―
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