見出し画像

(短編ふう)四門出遊と見習い悪魔

最近、〈病い〉や〈老い〉について、考えることが多くなった。

それで、
東門を出る時、年老いた人に出会い、人は皆老いるという〈老苦〉を知り、南門を出た時には病気に苦しむ人に出会い〈病苦〉を知り、西門では葬列に遭遇して、人は皆、いずれ死ぬのだと〈死苦〉を知って、最後には北門で、修行者に出会って出家を決意した、という「四門出遊《しもんしゅつゆう》」の釈迦の話を思い出すのだが、
〈老苦〉と〈病苦〉はいいとして、ふたつのあとでは、〈死苦〉はむしろ、それらの〈苦〉から解放されるイメージが感じられるし、修行僧を見て、悟りを求める旅に出た、となると、現実的な〈老苦〉や〈病苦〉、〈死苦〉を抽象的に咀嚼して言い繕ってしまっているような上から目線を感じてしまう。

〈病い〉にも〈老い〉にも個人差がある。
老いて、認知症になる人もいれば、ならない人もいる。病気に苦しむ人も、まるでかからない人もいる。
その違いは、それまでの生活習慣や、まして日頃の行いの違いなどで理由を説明できるものではない。
〈病い〉や〈老い〉に、見境いはない。
生まれながら病いを背負ってくる子供もいる。
節度のある生活を誠実に過ごしてきたひとが重い認知症を患うこともある。
そこに因果のあるはずもない。

*****

幼い悪魔が、扉の前でためらっている。
人間だとすれば、9歳か10歳にみえる。

なぜか、その日、姉の部屋の扉は半分開いたままになっていた。
窓の桟に腰掛けて邸の庭を見下ろしている、年の離れた姉の美しい横顔がみえた。

また、〈病魔〉を使役したんだな。
と、幼い悪魔の胸は痛んだ。

姉は、〈病魔〉を使役する悪魔だ。
人間を病に墜とすよう〈病魔〉を指揮する。

「お姉ちゃんは、どやって病に墜とす人間を選ぶの?」
と訊いてしまったことがある。
彼にはいつも優しいまなざしが、この時ばかりは、憎しげに歪んで恐ろしかった。
危うく涙が出そうになった。

「ごめん。ごめん。そうね。…でも、それは、また、いつか。」
優しく諭され、奥歯を食いしばって頷いた。

幼い悪魔は、以来、その、いつか、を恐れていた。

扉の前でためらっている弟に姉が気づいて、手招きをした。
小さな足が恐る恐る窓辺に近づく。
「あれをご覧。」
手入れの行き届いた広い庭の並木がサワサワと秋風に葉を揺らしていた。
サワサワと葉が裏返って風の通り道を示す。
「葉っぱが揺れるから見えない風がわかるように、病気は、見えないものが見えるかたちになっただけのものだわ。ひとは、病になると、本人やその親しいひとたちは苦しむけれど、病そのものは、もっと中立で、存在しているだけのものにすぎないの。悪人を懲らしめる為のものでもなければ、善人の信仰を試すものでもない。」

それでも、〈病魔〉を使役する悪魔である以上、姉のなんらかの意図が、誰を病床につけるかの選択に働いてしまっているのではないだろうか?
感情を押し殺した、いつも物静かな姉の姿勢は、自身の意図を滅し、常にランダムに使役を行う習慣の現われなのかもしれない。

幼い悪魔は、祖父に聞いたヨブの話が忘れられない。
神とサタンの戯れで、信仰を試される哀れなヨブ。

「キューピットがうらやましい。」
急に、姉がにこやかに言った。
「彼らはとても具体的。」
そして、ちょうど空を昇ろうとしていた鳥を弓で射る真似をした。
「狙った個人を目掛けて、シュッ。」
抽象的なことは何もない。

「あなた、キューピットコースに編入しなさいよ。」
姉が、降り振り返って微笑した。

上空の秋の空気が、漂うはぐれ雲になって見えている。

―了―

わたしは他宗教に関しての見識もありませんので、多分に誤解や曲解が混じっていると思います。どうぞご容赦ください。老いることや病むことについて、なんとなく消化しきれない何かを感じて、探りながら書いてみている次第です。結局、今回も何を感じているのか、うまく言い表せません。また、チャレンジましす。最後までお読み頂き、ありがとうございました。

関連のチャレンジはこちら↓


いいなと思ったら応援しよう!