「これが自分の個性/特性だ」と言い訳して停滞していないか?
個性のかたまり
自分で言うのもなんだが、私は個性の強い人間らしい。
遠目から見つけられるほど、挙動や仕草は特徴的。
考えや興味関心、やりたいことが昔から一貫していて、
移住をポーンとしちゃうくらいの行動力がある。
不登校、俳人、マジシャン、移住者、飛鳥時代好き、夫婦別姓・・・
挙げればキリがないほど、マイノリティに所属し続けてきた。
だから、すごく自己紹介しやすい。繰り出す話にインパクトがあって、覚えてもらいやすいから。
好き嫌いがわりとはっきりしているし、昔からやり続けてきたことがあるから、自分で自分はこういう人間だな、という認識もしやすい。
かなり、「私」という人間形成がしっかりされていると思う。特にこういった発信をしている時は、この「私」があるとすごく便利だ。
今の「私」に余白はあるのか
でもたまに、思う。
「私はこんな人間だ」と形成しすぎて、新しい可能性が入り込む余地をなくしているのではないか?
他人からの介入を拒否したり、意見を跳ね除けているわけではない。たとえば「あなたっぽくないね」といわれてあきらめる、なんてことは起きていない。
無意識レベルで「自分はこれに興味がない」と実践する前から判断をしているのではないか、ということだ。つまり、食わず嫌い。
でも、生きていれば当然、興味も変わる。思考も変わる。昔は嫌いだったものが、今はちょっと気になる、なんてよくあるはず。
昨日まで「興味がない」でも、明日になったら「興味がある」になっているかもしれない。
でも、ずっと「興味がない」と言ってきたから、今さらその意見を翻すのは、かっこ悪いし、自分っぽくなくない?
自分っぽくないことして、形成された「私」を内側から壊すなんて。
この「私」で長く生きてきた、弊害が出てきてしまった。
個性=要素の掛け合わせ
個性というは、いくつもの要素の集合体だ。
「私」は、編集者×俳人×移住×歴史好き×etc・・・って感じ。
ここに、もう1つや2つや3つ、新しい要素が加わっても、「私」が薄れないのはわかってる。
むしろ要素の数があればあるほど、個性的になるのもわかってる。てんこ盛りすぎる変態たちを、たくさん目撃してきたから。
でも、今までの「私」に頼りすぎてきたのか、興味がないことを興味あることに裏返すことをみっともないと思っているのか。
ほんとの気持ちを自覚しながら、それを解放することを、まだ”私”は恐れている。