福沢祐巳は「シンデレラ」であったか――『マリア様がみてる』第1巻を読む
1、はじめに
昨冬の読書会にて、『マリア様がみてる』の第1巻(以下、第1巻。作品自体はマリみてと表記)を扱いました。参加メンバーのなかにはマリみてに触れてこなかった方もいたので、第1巻のみを対象として、どのように読むことができるか、という形式で発表しました。
私は発表者として(注1)、以下に記載する通りの論を用意していき、事前に第1巻を読んできてくださった参加メンバーより、多数の意見をいただいた形です。
発表を通した指摘の中で、論を抜本的に修正すべき箇所もあったのですが、間をあけてしまったうちに指摘内容、および、その結果である修正案があやふやになってしまいました。そのため、いったんは、読書会に用意していった論をそのまま公開してみようと思います。
2、序
本作では、学園祭で演じられる「シンデレラ」の配役をめぐる賭け、そして、その劇への準備を通して祐巳と祥子が「姉妹」として結ばれるまでが描かれた。
最終的に祐巳がシンデレラを演じることはなかったが、平凡な生徒を自称する祐巳が、突如として学園全体、かつ、自身にとっても憧れの存在である祥子に目をかけられ「姉妹」へと至る物語は、いわゆる「シンデレラストーリー」と言える。
よく、幸運な女の子をシンデレラガールとかいうけれど、まさに自分がそうだったと思う。何も取り柄がない平凡な生徒だったのに、学校中から憧れられている人たちの仲間に入れてもらって、たくさん思い出を作らせてもらった。(p.244)
しかし、本作を振り返ると、決してシンデレラという役柄は好意的に描かれたわけではない。祐巳と祥子の賭けはシンデレラの降板を目的としたものであった。この点を踏まえたうえで、本論では以下を主題として扱う。
第一に、そもそも本作で「シンデレラ」という物語を下敷きに何が描かれたか、である。後述するが、王子さまの扱いの悪さがかなり印象的に描かれている。本来の結末である、王子さまと結ばれることが決して好意的に描かれていない、など、単純に「シンデレラ」の物語をなぞることを良しとしていないだろう。
そのうえで、祐巳の物語は「シンデレラストーリー」として「シンデレラ」に回収すべきか検討を加える。祐巳が言うように「幸運」という点は当てはまるかもしれないが、その物語は「シンデレラ」になぞらえうるのだろうか。
3、追放される王子さま
本作では、祐巳だけではなく、もう一人のシンデレラがいた。それが、実際に学園祭の劇でシンデレラを演じることになる祥子である。祥子の物語を追っていくと、「シンデレラ」における結末、すなわち、王子さまと結ばれることが決してハッピーエンドではないことが提示されている。
当初、シンデレラとして王子さまを相手することへの反感は男性嫌いに理由を求められた。しかし、祐巳が「だめなのは、柏木さんが男の人だからなのだろうか。それとも、それが柏木さんだからなのだろうか」(p.202)と疑問を覚えたように、強い反感の理由は性別とは別のところに求められる。
「優さん、私が高等部に入った時、入学祝を持って訪ねてきて何て言ったと思う? 僕たちは似た者同士だから、結婚しても必ずうまくいく。互いに自由に生きて、干渉しないようにしよう、って。『どういうこと』って聞いたら、『悪いけれど、男しか恋愛の対象にならない』って白状したわ。だから、私も外に恋人を作って子供を産めって。彼は私の子供を二人の籍に入れて小笠原グループを継がせたいみたい
(中略)
「可愛さ余って憎さ百倍よ、もう。あの人のお陰で、私の男嫌いは輪をかけてひどくなったんだから」(pp.229-230)
ここから読み取れるのは、王子さまと結ばれることそのものへの反感ではない。祐巳が祥子の屈折の原因として「彼の恋愛対象としての存在を抹殺された」ことをあげているように、感情が介在せず、結ばれることが手段として立ち現れることへの反感である。
こうした背景もあり、祥子から婚約解消の話を切り出したことが語られるほか、親しいことをアピールしようとした柏木への平手打ちが描かれることとなった。祥子というシンデレラを通して、王子さまと結ばれるだけでは幸福でないことが描かれる。
また、シンデレラの幸せな結末に王子さまが必ずしも必要でないことは、祐巳の口からも語られている。
瞳をキラキラさせている黄薔薇さまには悪いけれど、あんまり興味がなかった。
物語っていうのは名前をタイトルにいただいたキャラクターが主役なんだから、今回の場合シンデレラが美しければそれでいいんじゃないかな、と。あくまで王子は添え物で、カレーでたとえれば福神漬けもしくは刻んだラッキョ。ヒロインと差がつきすぎない程度の見映えで十分だ。(pp.187-8)
本作においての王子さまの存在感は弱い。このことは、稽古段階で王子さまに「代役」があてがわれていたことや、柏木が同性愛者として登場し、そもそもシンデレラを相手にしないことに理由を求められる。
そして、柏木を平手打ちしたあとに走り去る祥子を追うのが祐巳となった時点で、本作において王子さまはその役割を果たせないことが決定的となった。
祐巳は後を追おうと飛び出した。柏木さんがフライングスタートしていたけれど、ギンナンを踏んづけて滑っている間に追いついて、申し訳ないけれど肩を押して転がしてしまった。
「ごめんなさい、でも柏木さんじゃだめなの!」
捨て台詞は、今までで一番上手に言えた。きっとお芝居じゃなくて、心の底から出た言葉だったからに違いない。(p.224)
また、感情が介在せず、結ばれることが手段として立ち現れることへの反感という意味で、王子さまとただ結ばれることが否定されたと見るとき、この構図は祐巳をシンデレラとして眺めた時にも指摘できる。
祐巳が祥子からの「姉妹」の申し出を最初に断った時の理由がまさにこれである。
祐巳は祥子さまを好きで。
今でも好きで。好きだからこそ、最後のプライドで祥子さまを拒んだ。
たまたま近くにいた誰か、では悲しすぎる。どうしてそれが、祥子さまにはわからないのだろう。(p.129)
シンデレラ降板を訴える手段として「妹」になることへの反感は、祥子が柏木との婚約に対して持つ反感と相似である。2人のシンデレラは、ただ王子さまと結びつくことを否定した。
4、魔法の不必要性
祐巳をシンデレラと捉えた場合、薔薇の館はシンデレラ城になぞらえることができるだろう。祐巳からすると、そこに集まる山百合会の面々は違う世界の住人であり、自身がありのままで「お近づき」になることはできない。この祐巳の認識は、「高等部に入学して約半年。祐巳の中で薔薇の館は、シスターの居住区と同率一位とも思える禁忌の空間であった。」(p.36)、「山百合会とは、リリアン女学園高等部の生徒会。その幹部、紅白黄の薔薇さまといえば、生徒でありながら、一般の生徒とは別格の地位にいる殿上人なわけである。」(p.27)といった述懐の端々に見られる。
しかし、交流を経るにつれて、最初のように委縮した祐巳の姿は減っていく。それは、山百合会の面々の素を知るにつれて彼女たちが普通の人である、と悟ったからではない。当初の印象を持ちながらも、同じく交流することできる存在であることを理解していったからだろう。
真面目な口調で次々に飛び出す発言。本当にこの人たちが、生徒会のトップなのかと疑いたくなる。その様子から、もしかしたら彼女たちこそが噂を流している張本人なのかもしれない。(p.150)
(中略)
稽古はまたもや中断してしまったが、薔薇さま方の真剣な顔は久々に見ることができた。この館では、いつでもふざけている印象しかないんだけれど、もともとは祐巳だって山百合会幹部といったら真面目で近寄りがたいというイメージだったのだ。(p.155)
祐巳にとって、薔薇の館や山百合会の面々が決して遠いだけの存在でなくなっていったことは、薔薇の館で自由に飲み物を入れる、客人を招くといった描写にも見て取れる。
また、特に祥子との関係においては「マリア様の心」がその点を印象的に描いている。マリア様の心を喩えたものの一つとしてサファイアが挙げられていることを疑問に思う祐巳は、「(でも、祥子さまクラスのお嬢さまなら、サファイアに違和感なんか感じないんだろうな)」(p.31)と、祥子を遠い世界の住人として述懐した。
しかし、祥子からも同様の疑問が提示されることで、決して遠い世界の住人ではないことが明示されたと言える。祐巳と山百合会の面々の関係は、魔法を介在しなければ埋められないものではないのだ(注2)。 この点は、次の引用にもよく表れている。
「そうそう。祐巳ちゃんが祥子のシンデレラを真似できないように、祥子にも祐巳ちゃんのシンデレラはできない。それが個性ってものでしょ?」
慰めとも励ましともとれる好き勝手なコメントを聞きながら、とても心地いい気分になってきた。
ああそうか、って。少しだけ分かった気がしたから。
薔薇の館の住人たちは、祐巳に完璧を求めていたわけじゃないんだ。祐巳がコメディーだとしても、そのコメディーごと愛してくれている。
思えば最初からそうだった。祥子さまが祐巳を妹にと言った時、経緯に関しては非難したけれど、祐巳自身に対しての不満は出なかった。
祥子さまの妹にふさわしいかふさわしくないか、こだわっているのは祐巳だけだった。(pp.206-8)
祐巳の言葉の通り、山百合会と自身との距離を問題にしていたのは、ほかでもない祐巳自身であった。当初、祥子と「姉妹」の契りを交わすか否かにあたってはその経緯こそ問題になったが、山百合会の面々にふさわしいかどうかは問題とされていない。志摩子がすでに指摘していた通り、「生徒全員が山百合会の会員」(p.37)であり、薔薇の館も魔法によって着飾らないと入ってはいけないような性質のものではなかった。
そもそも、この点は祐巳が祥子を眺めるときにすでに印象的に描かれていた。
やがて紅薔薇さまがそう言うと、祥子さまはぱあっと表情を明るくした。たったそれだけのことで、周辺の空気までもがキラキラと輝くようだ。そう、ちょうどシンデレラが魔法をかけられるシーンのように。
(中略)
祥子さまは、カップをひっくり返しかねない迫力で、テーブルを叩いた。魔法のとけたシンデレラ。(pp.67-8)
以降も、祐巳は祥子と交流を深めるうちに、勝手に想像していた像とは違う側面をたくさん見ることになる。しかし、決して祥子への好意が変わることはなかった(注3)。
5、物語外で行われる「姉妹」の契り
前節までで「シンデレラ」を下敷きに何が重要視されているかを確認してきた。その結果として、単純に王子さま(祐巳においては憧れの人=祥子)と結ばれることそれ自体は否定的に受容されること、また、祐巳の物語においては魔法が不必要であることが見て取れた。
以上を踏まえたとき、祐巳の物語、すなわち、祥子に見初められ「姉妹」になるまでの物語は「シンデレラ」になぞらえうるだろうか。結論を先に言えば、祐巳の物語は「シンデレラ」からずれている。
祐巳が「シンデレラの衣装や小道具などはそれぞれ製作者が持ち帰り、祐巳は二週間の思い出と一緒に台本を火の中に投げ込んだ。もう、これで何も残らない。」(p.244)という述懐に象徴的なように、「シンデレラ」の物語から外れたところに二人の契りがある。「シンデレラ」のモチーフにも同様に象徴的な場面を求めるのであれば、本番前の集合時刻に二人して遅れてきたことも該当するだろう(pp.237-8、予定時刻≒十二時過ぎでも活動し続ける2人)。また、ロザリオの授与がガラスの靴を履かせる行為と逆の動きをすることも象徴的だ(注4)。
しかし、二人の契りが「シンデレラ」からずれていることは、その契りに至るまでの物語にも表れている。そして、このことによって、祐巳と祥子は真実「姉妹」として結ばれたと言えるのだ。以下、前節までで指摘した①手段として結ばれることの否定、②魔法の不必要性、という観点からまとめる。
①手段として結ばれることの否定
単純に「シンデレラ」になぞらえることができるならば、祐巳は最初にロザリオを提示された段階で受け取ってしまえばハッピーエンドだっただろう。しかし、祐巳はそこで拒絶した。すでに引用した通り、好きだからこそ、「たまたま近くにいた誰か」として、それこそ、シンデレラ降板の手段として求められることを良しとしなかった。最初にロザリオが提示された段階では、祐巳と祥子の間でお互いに対する意識の非対称性があった。
そして、この点は祐巳からロザリオを求められた際に祥子が断ったことで解消される。
「これ、祐巳の首にかけてもいい?」
それはいつか見た、祥子さまのロザリオだった。
「だって、昨日はくれないって――」
祐巳が言いかけると、祥子さまは「当たり前でしょう?」と遮った。
「シンデレラを交代してくれようとしているあなたに、ロザリオを受け取ってもらっても嬉しくなんかないわ」
「え、それじゃ……」
「情けとか同情とか、そんなものはなしよ。これは神聖な儀式なんだから」(p.247)
ここに至って、双方が相手を純粋に求める構図が成立する。仮に、劇の前日、祐巳の求めに応じて祥子がロザリオを渡していたら、祐巳は(象徴的にも)「シンデレラ」を引き受けることになっただろう。
しかし、そうした「賭け」が無くなった後に改めてロザリオを提示することで、二人は手段としてではなく「姉妹」の契りを結ぶに至ることができた。ロザリオの授受が「婚姻」と重ねられていたことを鑑みると、柏木を否定した祥子の物語と鮮やかな対比となっている。
②魔法の不必要性
既に指摘した通り、ふさわしいかどうかを気にしていたのは祐巳だけであった。最後まで祐巳の平凡さをもって、祥子自身が祐巳を拒絶することは一度もなかった。祐巳と祥子が「姉妹」になるにあたっては、魔法は不必要であった。
魔法の不必要性、あるいは、不在という観点では、ガラスの靴が一度として描かれていないことも象徴的である。とりわけ、祐巳が祥子を追う場面で、いずれも上履きのまま飛び出してしまう点に印象的である。
もしあのまま祥子さまが帰ったとしたら、もう追いつくはずはなかったけれど、とにかくいても立ってもいられなかった。
(中略)
祐巳はふと足もとを見た。上履きのまま飛び出してしまったようだ。(p.179)
無我夢中だったから、銀杏並木にさしかかったことも忘れて、祐巳も白薔薇さまも落ちていたギンナンを随分と踏んだ。校舎から体育館に行って、そのまま外に出てしまったから実は二人とも上履きだった。(p.215)
柏木との待ち合わせ時刻が迫っている中でも靴を履き替えていた点との対比にもなっている。祐巳が祥子を探しに行くという状況下では、特別な靴への履き替えは要さない。着飾らないままに追いかけるのである。
そして、ロザリオを受け取るか悩んだ祐巳が思い出そうとしたのは、上履きのまま祥子を追いかけたことであった。自身が未熟であることを受け止めつつ、最終的に必要としたのは、自身をふさわしく着飾るような魔法ではなかった。
結局、2人の契りにおいて必要だったのは、祥子と結ばれたい、という自身の気持ちを受け止めることであった。薔薇の館で会った翌日、ピアノの連弾をした際は、「やっぱり、だめですね。祥子さまにはついていけません」(p.106)と、わざと音を外して連弾を終わらせた。だが、祥子は決して演奏に文句を言うどころから、最初から好意的に受け止めていた。
関係を深めていくうちに、2人の共同作業には変化が生まれる。距離感の変化は、最初のピアノの連弾、そして、ダンスに表れているだろう。
「焦らない。笑って」
こんなに相手が下手なのに、祥子さまは楽しそうだった。はじめは少し引きつったけれど、真似して笑っているうちに、自然と肩の力が抜けてきた。
「そう。素敵になってきた」
(中略)
「ダンスって、こんなに楽しいものだったんだ」
そうつぶやくと、祥子さまは目を細めてうなずいた。
「本当ね。私も知らなかったわ」
このままずっと踊っていたい。今だけは祥子さまも同じ気持ちなのだと、自惚れていいと思った。(p.186)
そして、ロザリオを受け取った祐巳は、祥子と「月明かりの中、いつまでも踊り続けられるような気がした。」(p.249)と述懐するに至るのである。
6、まとめ
以上、「シンデレラ」を下敷きに何が描かれたかを踏まえつつ、祐巳の物語が「シンデレラ」に回収されないことを指摘した。平凡な女の子が、突如として目立つ位置に押し出されたという点では「シンデレラストーリー」という外形を持ちつつ、祐巳と祥子が「姉妹」の契りを結ぶにあたっては、それぞれが互いと向き合い、必要とし合うことでようやく成し遂げられた。偶然からのスタートではあったが、確かな選択の結果である。
振り返れば、どのようにして「姉妹」へと至るかは、志摩子と祐巳の間でも言及されていた。どうして、祥子の申し出を受け入れなかったか、という際に志摩子は相性を持ち出している。しかし、ここで志摩子が言わんとしていたのは、相手と向き合うこと、そのうえでの選択の必要性である。それは、後からの申し出である白薔薇さまのロザリオを受け取った彼女らだからこその言葉である。
ピアノの連弾、稽古前のダンスに見られるように、(最初は手段としての申し出という側面が強かったとはいえ)祥子は最後まで祐巳を求めていた。最終的に必要だったのは、祐巳がその手を伸ばすことだったのである。
祐巳と祥子が「姉妹」の契りを交わした夜、祐巳が祥子との共通項を見出した「マリア様の心」でダンスを踊ることになる。劇「シンデレラ」が描写されないなかにあって、読者、そして、それを見つめるマリア像にとっては、これが2人の物語の集大成、帰結であったと言えるだろう。
7、おわりに
男子校に通っていた10年以上前、偶然出会ってからずっと大好きな作品の1つがマリみてです。それでいて、この10年以上の長きにわたって、触れて考えたことをこうして文章化してきませんでした。
今回の記事を契機に、少しずつマリみてについて、自身の中にある”もの”を言語化していきたいところです。
読書会での指摘事項をどうにか振り返りつつ修正した記事か、あるいは、黄薔薇革命以降についても、いずれ書いてみたく思います。
注1:正確には、発表者を引き受けたなかで、私が題材として第1巻を指定した
注2:魔法の不在・不必要性という点では、令の魔法によって衣装が変わるシーンの仕掛けを明瞭に描写していることも注目できる。からくりを描くことによって、魔法の不在がむしろ印象的に描かれたと言える(p.203)
注3:この点は祐巳と白薔薇さまの問答にもよく見える。なぜ志摩子を「妹」に選んだかへの「白薔薇さま」としての答えと個人としての答えが明確に弁別されていることが、とりわけ重要な点であろう(p.140)
注4:前者においては頭(上)から、後者においては足元(下)からの動作となり、きれいに逆の動作となる
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